昨夕、日没後の空を見に行きました。
いつものビューポイントで眺めていると、犬と散歩中の親子がやって来ました。
挨拶代わりに、
「コッカスパーニエルですか?」と、お尋ねしたら
「そうです。ご存知ですか?」と。
「はい。昔飼ってました。耳がきれいですね。食事のときは耳を上げておられるの?」
「いいえ。ドライフードだけなので汚れることはありません」
そうなんだ。私が思わず”昔“と言ったのは、もう50年も前のことでした。
そのころは、残飯を炊いて与えていましたから、お皿の中に垂れる長い耳はいつもご飯だらけ。今なら、動物愛護団体からお叱りを受けそうな状態で飼っていました。
ずっと忘れていた、”コロ“のことを思い出しながら、お母様とお話していたときのこと。
小学生の娘さんが西の空を指差して、
「あっ!お月様!!」 と教えてくれました。
雲間から、ひととき見えた眉月の輝きは、ちょっと儚くて、短命だった”コロ“を思い出すのにふさわしいようでした。
この後、雲が広がり、再びお目にかかることのない夕月でした。
朝刊の書評欄に『さみしい夜にはペンを持て』(古賀史健著)という本が取り上げられていました。
「自分と対話を重ね、知らなかった自分を発見して、自分を好きになること」が、書くことの効用だとありました。
“自分を好きになる”という言葉が目に止まりました。
自己肯定感を育てようというスローガンをことさら目標にしなくても、本来、誰でも自分のことが好きなんだけれど、うまく愛することが出来ずにもがき苦しむのが人の世です。
自分のことを、この人ほど好きだった人はいないだろうと思われた父ですが、人生の終末で口にした言葉は、
「俺の人生は失敗の連続やった」
でした。
自分のことを好きになる修行は、人それぞれに違った形で与えられます。
父に倣って、私自身の人生の総括をすれば、
「なんでもっと自分を大切にできなかったんだろう」
と、なります。
もう少し甘え上手に生まれたかった。でも、なんの因果かその習性が抜け落ちていたことに加え、それを許さないのが母でした。
以来、人は、与えられた生の中で修行するようになっていて、その課題に真面目に取り組み努力するのが人生なのだと考えるようになりました。
昨日、例の『10人のお坊さん』で、過去の悩める自分を救ってくれた仏語が登場しました。
「 常懐悲観
心遂醒悟 」
悲しみを持って生きていれば
いつか救われに到達するよ
未熟な自分は、この言葉にどれほど助けられたことでしょう。悲しみは忘れなくてもいい。それを抱いたまま生きればいい。
大好きな一節です。
あの頃は、悩まなくてもいいことに悩んでいたのかもしれません。
でも、いつのまにかその山を越えてきたことさえ忘れていました。そう思える今の自分は、あの頃より少しだけ、「自分を好き」になれたのでしょうか。
もし、そうなら、ちょっといい気分です。
付け加えるなら、そう思わせてくれた父に、人生に失敗はないよと言ってあげたいです。