こころあそびの記

日常に小さな感動を

義と利

 

 今日は、大形徹先生の近鉄文化センターでの講座『荘子』の日です。

 上六行きのシティバスのフロントに小さな日の丸がつけられていたので、『勤労感謝の日』と気づきました。

 ふだんの土曜日とは違いました。

 バスは外国人観光客と優勝セールに向かう人で満員。デパートというデパートは大入り満員。

 若いときは、エネルギーをもらうために出かけた人ごみも、老人には人酔いしそうになる苦行でした。

 

 

 さて、『荘子』は、雑篇「盗跖篇」を読んでいます。

 人はどう生きればよいか。荘子の時代から、義と利(益)のどちらを優先すべきか、と生きざまに迷っています。永遠のテーマの一つなのでしょう。

 話は孔子の弟子の子張と、架空の利己主義者である満苟得の会話が描かれています。

 孔子の説いた儒学は、為政者や親に都合のよいものです。お仕えする人間がお行儀よく従ってくれたなら、上に立つものにとって、それぼどの好都合なことはないからです。

 従って、子張は行いをきちんとすれば、それでこそ名声を得られるのだと説きます。

 それに反論するのが、人生は利益を求めてなんぼという考え方の満苟得という男。

 彼は、こそ泥はとっつかまるが、大泥棒は大名になるではないかと、うそぶきます。今の政治家が聞いたら、大半が隠れたくなるような言葉です。

 

 つまり、子張は義を大切にしてこそ栄転の道が開けるといい、満こう得はそんな栄誉がなにになる。利益をもとめて生きればいいじゃないかと、真っ向から反対の立場です。

 

 

 私たち日本人には、夏目漱石の『草枕』の冒頭の一節のほうが馴染み深いことです。

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、この世は住みにくい」

 結局は、どうしたって、この世は住みにくいのです。

 その解決のため自分を傷つけて生きることは、天道を悲しませることです。

 だったら、凡人だからできる住みやすくする術を習得したいものです。

 それは、自分の身に起こるいかなることも流れる川の水と見立てて、見送ることです。執着しないこと。そうしたら、少し楽に生きられるかもしれません。

 それをさらっとできるようになるのが、これまた難しいのです。