こころあそびの記

日常に小さな感動を

新嘗祭

 

 新嘗祭

 天皇が今年穫れた新米を天地の神に供え、自らも食する祭事が宮中で執り行われます。

 本来は、この日まで新米は食べずに待たないといけないそうですが、8月に入ると新米が出回る時代です。食いしん坊は、秋まで待てなくてごめんなさい。

 美味しいお米を育ててくれた太陽と大地それからお百姓さんに、あらためて心から感謝して、食卓を囲みたい日です。

 

 

 以前、自費出版したときのこと。

 出版社の社長さんから最初に尋ねられたのは、どんなイメージの本を作りたいか、ということでした。

 本も、人と同じで見た目が大切であることを教えてもらいました。

 それ以来、綺麗な製本であるとか、美しい装丁や、しっくりくる手触りとかで優劣をつけて選ぶことを意識するようになりました。

 特に、図書館でチョイスするときは、何をどう選ぼうが自由な分だけ、その比率があがります。

 その一冊が、この『華栄の丘』(宮城谷昌光著)でした。渋い配色の装画に惹かれて手に取りました。

 あとがきに、「わたしは、『荘子』を読みながら、宋人というものを考え続けてきたような気がする」と、宮城野さんが書いておられるのを見つけて、読んでみたくなりました。

 荘子は中国戦国時代の宋に生まれた哲学者です。

 宋という国は、古代殷王の子孫と遺民が作った国家です。引け目を持った民の哀しみが流れていたのではないかと推察します。

 

 

 孔子が立身出世を思い描いたのとは対照的に、荘子はそんな現実世界は突き抜けてしまったように見えます。

 それは、想像するに、宋という国に生まれたことに関係があるのかもしれません。

 人は、生まれる時代も国も選べません。生まれたときから、すでに何かを受け入れざるを得ない。それは、各人に現世で突きつけられた課題です。

 

 「あなたの家に押し入った者が、あなたの兄を拉致したあと、財貨をよこせば命を奪わぬ、といったら、あなたはどうしますか」というフレーズが出てきました。

 今、あちこちで勃発している戦争はこの比ではありません。もっと無惨なことになっています。

 

 孔子が唱えた「礼」は人が集団で行きてゆくときの調和の表現です。

 仲良しハーモニーです。

 それは、宇宙の原理と説いた人もいます。

 

 動植物だって、その掟を知って生活しているのに、何故、人間はできないんだろう。

 争いごとがないと生きた気がしない、という感覚は理解できないのに、それを支援する人がいる。ますますわけが分かりません。

 

 

 2000年以上前の宋代なら、百歩譲って許せても、21世紀に同じことを繰り返す人間の浅ましさは、どうでしょう。

 みんなの望みが平和な世界ではなくて、欲望が満たされる世の中だとしたら・・

 この先も、こんなことを繰り返すのかと思うと、暗澹たる思いに陥りそうになります。

 いや、利己主義と攻められようと、今の自分の居場所が平和であることに感謝して明るく前を向きたいと思い直してまいりたいものです。