こころあそびの記

日常に小さな感動を

今宵は二十三夜月

 

 毎月七日は箕面竜安寺の月次供法要の日ですから、前々から行く予定にしていました。

 早めに家を出て、いつもの聖天展望台に上がろうと、西江寺の境内に入ると、着物姿の方が大勢お集まりでした。

 

 

 「虫」と書かれた灯籠を見て、「虫供養万燈会」が挙行される日であることに気づきました。

 歴史は古く、1300年以上前、行基菩薩が行脚中に拾ったむしの亡骸を供養されたことが始まりだそうです。

 踏み潰した虫たちに目をくれもしない現代人に比して、高僧はなるべくして高僧になられたことを納得したことです。

 

 

 そこから、いつもの聖天展望台へ。

 大阪湾の向こう側には四国の島影も見えて、上った甲斐がありました。

 ところが、うれしい誤算というか、今日の上り甲斐はそれだけではなかったのです。

 私の後に続いて上ってこられた女性が、双眼鏡をお持ちでしたので、思わず、

 「小鳥を見に来られたのですか?」とお訊ねすると、

 「鷹です」と。

 そこから話が弾み、野鳥の会の定期観察会のことなどを教わって、意気揚々。

 続いて上がって来られた男性は、先日まで、箕面ビジターセンターにお勤めだっただけあって、箕面のことはすべてご存知でした。

 楽しく和ませてくださったあと、

 「今から、清水谷まで“アスカソウ”を見に行ってきます」と出発して行かれました。

 浅学のわたしは、”アスカソウ”と聞いて、山小屋の名前かと思っていたら、花の名前と聞いてびっくり。毎回、お恥ずかしいことです。

 

 その後も、彼女にカメラのことやミサゴの営巣の話など、興味が尽きずにお話してしまいました。

 もっとお伺いしたかったのですが、竜安寺の焚き上げ時刻が迫ってきたので、泣く泣くお別れしてお寺に急ぎました。

 

 

 心が早く早くと急くと、足もそれに合わせて動いてくれるではありませんか。ゆっくりしか歩けない、そう決め込んでいるのは、自分だった。そのことに気づけよと諭されたお寺行きでした。

 護摩木を書いて、ほうほうの体で滑り込みセーフ。

 お堂の中に立ち込める比婆の煙で体を清浄にしていただくのは何年ぶりでしょう。ただただありがたい気持ちになれました。

 

 代替わりされたご住職さまが、お父様から受け継いだ所作を変わらぬやり方で伝えられていることに小さな感動がありました。変わっていくことの多い世の中で、変わらず伝えられていくことの素晴らしさ。それは仏教の中だけでなく、生活全般に日本人が大切にしていって欲しいものと感じました。

 

 

 今日は、旧暦で8月23日。

 つまり、二十三夜です。

 月は、新月から満月に向かうときに愛でるもの。そう思いこんでいるのは、その月の方が見る機会が多いからでしょう。

 ところが、大昔からの月の信仰は、かえって満月以降の月の出を夜通し待つことにあったと伝えられています。

 特に、真夜中午前零時近くに上る二十三夜の月を尊んだそうです。

 古代人は、左側がせり上がったお皿形に阿弥陀三尊が乗っているように見たといいます。

 月は、誕生と成長、いのち、水、豊穣と多産、病と死と再生。

 いろんな祈りごとを念じさせます。

 

 二十三夜待ち。そんな行事を大切に守っている地域が今もあります。

 山の端から現れる光芒は、真夜中だからこそ感得できる幻想の世界でありましょう。

 いつか見てみたい二十三夜月です。