心が汚れないようにと精進しているつもりでも、なんとなく落ち着かない気持ちになることがあります。
そうなる原因は、心の疲れとでもいうのでしようか。
なにもしたくなくなるのではなくて、もっと何かしなくてはという焦燥感みたいなものかもしれません。
そんな苦境から脱出する方法は、人それぞれ。
私の場合は、本棚をじっと眺めて、今、最も癒やしてくれそうな本を探します。
今日は、『胸中の山水』(細川護煕著)に目が留まりました。
拙著、 『逍遥遊』の冒頭に上げた利休の言葉をはじめ、細川さんのご本の中に収められている名言は、いつも私をニュートラルに戻してくれます。
『胸中の山水』を本箱から取り出して目次を見ます。そして、今の自分が欲している項目をインスピレーションで選び出す。
今日は、「感性は自然の中で育つ」という項目に惹かれて、頁を繰りました。
書き出しは、こうです。
「私がやきものでよくいわれるのは、細川さんは子どもの頃からいろいろ良いものをたくさん見てきたから、いいものができるのでしょう、ということです」
お殿様のことですから、庶民から見ればそう感じられて当然です。私だって、そう思っています。
ですが、レベルの差があるにしても、大切なことを書いてくださっていました。
そのことに、深く賛同したので、書き留めておきたいと思います。
「感性というのは、私が思うに、大人になってから培われるものではないということです。」
子どもの頃の体験があって、それが大人になったとき、何かの拍子に自分を目覚めさせるきっかけを作るとおっしゃっているのです。
小さな種が、大人になって大きな目覚めになることがある、と細川さんは書いておられます。
自然への関心だけでなく、絵画にしろ音楽にしろ、大人になってからの感動は、自分の中の何かが引き寄せたものといえるかもしれません。
きのう、ハーブ園で若い女性が追いこしざまに発した、「山の雨っぽいね」という言葉にはっとしました。
折しも、目に見えないくらい細かい霧雨が降っていて、それを捉えての表現でした。
山登りもキャンプも縁のない私にとっては、未知の領域の言葉です。
いい言葉だなぁと、空を仰いでこれが山の雨というのかと感心したことです。
彼女の自然を見る目が肥えているから出た言葉なのか、とっさに出た言葉なのかは分かりませんが、いずれにしても、彼女が持っていた種が披露された瞬間でした。
通りすがりの老人の心をくすぐって下さって、ありがとう。おかげで心を澄ますことができた気がします。