朝のスーパーで、川西の“朝採りイチジク”が並べられていました。
昔、イチジクが大好きな友人が、選び方を教えてくれたっけ。色艶よくピンと張って丸い大きな実がいいよと。
今日も、美味しそうなイチジクを抱え込んで食べてるかな。
さて、購入した商品をショッピングカートに載せたまま、駐車場まで運ぶのは年寄りの常です。
そのカートを押してスーパーまで返そうとしたとき、「よかったら、持って行きましょうか?」と声がかかったのです。ヨタヨタした私の足元を見てのことだったのでしょうか。
すらっとした女性でした。
びっくり顔の私に「私、使いますからいいんですよ」と、重ねて優しい言葉をかけてくださいました。
できそうで、できないことです。私なら勇気を振り絞らないと、できない行為です。こんな方、おられるのですね。
どこで、どなたに、お世話になるかもわからないから、婆さんといえど声をかけてもらえる程度には身ぎれいにしておかなくてはならないこと。同時に、こちらから声かけして嫌がられないためにも、清潔感が大事であることを教えられたことです。
近頃、散歩してると、風が心地よく感じられます。
汗をかくほど暑いのに、さて、プールや海に入るとなれば、水に冷たさを感じるという季節です。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
立秋の日に詠まれた歌ですから、少し季節のずれがありまして申し訳ありません。
風の音を耳元に感じて、つい、思い出したことです。
秋の始まりは、古来、感性で捉えてきたものでありましょう。サトウハチローさんが、その感覚を「小さい秋」と名付けられたことに、詩人の詩人たる所以を感じます。
見えない季節の進捗に気づける自分でいたいと思います。
他方、人の世の繊細な心には鈍感なこと、この上ない私です。
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人
天降り来むものならなくに
ぼーっと、見るでもなく見上げる空には、とても共感するのに、そのときの心は思い人にあるとは。空っぽの心ではいけないの?
人間愛が淡白であるということですから、文学には全く興味が湧かずに生きてきました。
こんな風に、人との関わりを避けるようになったのは、人とは恐いものだと思いこまされたことと関係があるかもしれません。
七人兄妹の末っ子だった母は、愚痴を聞いてくれる人がなくて、私にこぼすのが関の山でした。
分かってるのか分かってないのか、暖簾に腕押しの幼い私に、繰り返して話し続けました。
おかげで擦り込まれた方は、いつの間にか人付き合いは面倒くさいとばかりに、他人を避けるようになってしまったというわけです。
だから、今朝のカートの彼女のような人に出会うと、驚きが先に立つのです。好意を気取ることなく示せる人がいる。
おおかたの人がなんとも思わないことに、大げさなくらい反応してしまう私です。