『こころ旅』で日野正平さんが心臓破裂起こしそうになりながら、坂道を上られます。
そんなシーンはこちらまでつらくさせます。小さいときから、坂道が苦手だった私ですから、なおさらです。
少しの勾配でもハーハー言うから、遠足でも先生にとっては迷惑な子どもでした。
それがなぜか、この年まで鍛錬してきたからか、以前ほどしんどくなくなったのは不思議なことです。
自分流の坂道攻略法を考えついたのはいつの頃だったでしょう。
坂道の上の方は見ない。そこに到達するまで、足元を見て一歩ずつ数えながら上るという方法です。
これだと、先の心配をしなくて済むのです。
坐禅も、初心者は数を数えるといいと聞きます。坐禅を組んで、無になれといっても、そう簡単にはいきません。静かにすればするほど、雑念が次から次ぎへと湧くものです。
そんなことの解消に役立つのが、数を数えることだといわれます。
鎌倉にある円覚寺の横田南嶺管長が坐禅のときの「数息観」を説明されていました。
ゆったりと呼吸を調えて息を数える。吐く息を数えるのが効果的である、と。
また、この方法は、数ある集中方法の中でも最上であるということです。
さて、今日はプールの日でした。
ど近眼ですから視野の狭いことが幸いして、歩くという行動に集中できます。
そのとき、帰ったらあれをしようとか、娘にこれを頼まなくちゃといった雑念は、ほとんど湧いてこないのは、数をかぞえているからです。
つまらない、あるいは簡単なことですが、これほど無の時間を作り出せる方法は他にありません。
昨日、図書館で『俳句で学ぶ唯識超入門』(多川俊映著)を借りてきました。
本屋さんではお目にかかれない本です。
私は興福寺の東金堂に入場するとき、いつも入り口で「興福薫荷」というお香を求めます。この香りが好きだからです。
藤原氏とはなんの関係もないのに、興福寺が好きなのは、北円堂に「無著像、世親像」がおられることもあります。
仏教関係の本棚の中で、背表紙に”俳句“という字があったことに驚いたこともあり、内容に期待して借りてきました。が、その期待をはるかに超えて、知らないことを教えていただけました。
先に、数をかぞえる修行の方法を記しましたが、その眼目は「散心から定心へ」にあります。
散漫な心持ちを集中させて、心が定まれば、ほんとうの平安に至るということではないかと思います。
難しいこころのあり方を、俳句を使って説いてくださっているご本です。できることなら手もとに置いて、折々に読み返したいとさえ思えました。
「我を忘れ日暮れまで
摘み草をしていれば
太古より此処に居たと思いぬ」
熊谷龍子
没頭することは、定心に繋がること。
そういう意味で、女は幸せです。お炊事、お掃除、家事全般などなど。
日常が修業と教えられた道元さんが好きなのに、抜かりなくできる人間ではない私は、やっぱり数をかぞえるしかない情けない修業者です。