そぼ降る雨に阻まれて、せっかくの散歩準備も徒労に終わってしまいました。
そこで、この眠気を誘うほど静かな時間をどう過ごそうかと思案していたところ、本箱から取り出した本に挟まっていた村上和雄先生の笑顔を見つけて、はっと目が覚めました。
平成18年(2005年)11月29日水曜日の「正論」でした。もう、18年も前の切り抜きですから、すっかり変色しています。
スクラップ帳など収める場所を決めておけばよろしいと重々わかっていても、それができない性分。
いまさらどうしようもないわけで、孫に「開けたら閉める!」と叱られることも度々とはお恥ずかしい限りです。
ですが、こういった突然の予期せぬ出会いは、整理整頓が良い人には味わえないはず。こんなところに、ささやかな喜びが、というのは言い訳かな。
残したいという意志を持ってわざわざ切り抜いたのは、「『いのち』はなぜ尊いのか」という一文でした。
冒頭、「命を粗末にする事件が続発している。信じがたいことが、起こっている。」と問題提起されています。
なんと、今に至っても、この提起が古びていないことに、悲しみを禁じ得ません。
なぜ、こんな世の中になってしまったのか。なぜ、人々の心が荒廃しているのか。
それは今を生きるすべての人の宿題です。
宇宙ができたのは、137億年前。
その時のビッグバンで生じた水素原子を生き物の中に残して進化してきた歴史の中の一員であること。
さらに地球上に生物が誕生したのは38億年前。そこから、一度も途切れることなく受け継がれてきたいのち。
それがどうしたという横暴さが、何かを狂わそうとしているように思えてなりません。
村上先生は「something great」の提唱者です。
生命科学者でありながら、思想家でもあります。先生のお仕事は、人文科学と自然科学の接点に立って、理詰めの研究の中に温情を感じさせるものでした。
この身体が元素の集合体という単純な構成でないことは、生殖の不思議を見ても明らかです。
なのに、最近、唯物としての教育に傾いているのは、情の教育が全体教育に向かないところがあるからでしょう。
それでも、大切なことは大切として、譲らない覚悟も大事です。
なにが大切か。
それを村上先生の文章から抜き書きさせていただきます。
「私たちは自分の力で生きているように思っているが、自分の力だけで生きている人など地球上に一人もいない。太陽、水、空気、動植物、地球などや目に見えない大自然の偉大な力(something great)のおかげで生かせれているのである」
今になって、SDGs、生物の多様性なんてお題目を唱える方々にお聞かせしたい。
人は、太古から生かされ続けてきたし、自然と共生してきたことを体が知っていると。
生かされて生きているという感覚があれば、生を謙虚に受け止められるはずです。
ところが、薄々それを感じたとしても、人間の持つ業がとてつもなく根深いことを知るほどに、世界平和への道が遠いという現実が、また人々を虚しくさせている。
この堂々巡りに終点はあるのでしょうか。