チュンチュンと朝から楽しそうな鳴き声が聞こえてきましたので、外に出てみたら、たくさんの雀たちが餌を啄んでいました。雨上がりの泥の中によほどおいしいものがあるのでしょう。
仲良くお話しながら啄んでいる様子があんまり可愛くて、日本むかし話の世界に引き込まれたように感じた一時でした。
昔、小学校低学年だった娘にお茶とお花を習わせていたことがありました。
老いさらばえるだけの自分が習うより、未来に生きる人の方が役立つだろうと思ったからです。
九十代の師匠と十歳にならない娘。
話が噛み合うのかと心配したのは老婆心だったみたいです。
ある日、縁側から二人でお庭の木を見ていたとき、娘が「先生、雀が巣を作ってますよ!」と言ったそうで、それ以来、先生は娘をとてもかわいがってくださいました。
たぶん、雀ではなかったでしょうが、年の離れた二人が木を見上げて「ねっ」「ほんと」と言葉を交わしているところに温かい空気を感じたことです。
その師匠がいつか言われた言葉があります。
「此処にお稽古に来る人は、みんな縁があって集まっているのですよ」と。
人生は「運がすべて」という人と同じくらい、人生は「縁で結ばれている」と云う人がいます。
縁。この世で出会った人だけではなくて、過去世のどこかで袖擦り合ったというほどの記憶にない人がこの渡世を助けてくださっている。そんなことを信じるもよし、信じなくてもよしです。
でも、近頃、世情がギスギスしてるのは、科学万能主義でそういうことを信じない人が増えたからといえなくもありません。
それは説明できないもの。
よほどの社交家でない限り、この世で出会う人の数などしれたものです。
ある人は、娘の就職先を探していたところ、昔馴染みにたまたま会ったら、その人の口利きで一発で決まったとか。
また、店先を訪ねてきた人に、よくよく話を聞いてみたら、共通の友人がいてびっくり。その友人は、かつて仕事のヒントをくれた人だった。とか。
どうして、繋がっているのか。不思議に思うことはないですか。
あるいは、この人といると落ち着くとか、この人と話してると楽しくて時間を忘れるわ。なんかも、きっといつか会ったことのある人なのだと思っています。
今、なんのかんの言っても大きなトラブルなく過ごせているのは、ほんとうはとても有り難いことなのではないかと、ようやく信じられるようになりりました。
お天道様さまが見てござる。
昨夜、関西に春を告げる「お水取り」がクライマックスを迎えました。
夜空を焦がす大松明で邪気を焼き尽くし、疫病退散、五穀豊穣、天下太平を祈ります。
それにしても、十日前に、福井県小浜の神宮寺の側を流れる遠敷川に流した香水を、昨夜になって、奈良の東大寺の若狭井から汲み上げるなんて。そして、その水を二月堂のご本尊である十一面観音さまにお供えするなどと誰が思いついたのでしょう。
今年で1270年目。大仏が燃えた1568年も、大空襲の1945年も、休まずに続いてきました。
この日がくる度に、燃え盛る松明より、鵜の瀬と奈良を結ぶ見えない道に思いを馳せてしまいます。
昔の人が考えたにしては不思議すぎます。いや、昔の人だから考えられたのですね。