こころあそびの記

日常に小さな感動を

仏画

 

 きのう、藤田美術館に向かう途中、洋食屋さんの懐かしい匂いに誘われて、ふらっと入ったお店。何が懐かしいって、近頃のお店は換気が良いから、客が匂いまみれになることはまずありません。なのに、タイミングわるく、お腹がいっぱいになるほど匂いと煙を浴びて待つことになりました。

 長らくカウンターに座って、厨房を一人でテキパキ取り仕切る調理師さんを見ながら、いろんな雑念が浮かんだはずですが、思い出せない。そんな空白の時間を過ごせたことが久しぶりの贅沢だったのかもしれません。

 

 

 さて、先日、恩師、日本画家の美堂先生をお訪ねした時、お床に飾ってあった仏画に吸い寄せられました。

 法隆寺の国宝の模写だそうですが、表情がとても優しくて、失礼ながら、先生ならではの筆致だと存じました。

 

 そこで、思い出したのが、病気がちだった子どもたちが幼かったころのことです。

 今から四十年も前、知人を介して知り合った整体師さんが、子どもたちに仏画を勧めて下さったことがありました。

 お手本に薄紙をのせて、鉛筆でなぞりなさいと教えて下さいました。

 細い線からはみ出さないように描くことは、精神統一に役立ちます。

 気は集中させねば本来の働きができないことを絵を通して学びなさいと言いたかったのは、きっと私への助言だったのでしょう。

 あれこれ子どもたちの気を散らすことばかりやっていただめな母でした。

 

 

 浄圓寺さんからもらったカレンダーの3月には、つくしの生えた野原に立つお地蔵さんが描かれています。

 これを目にするたびに真似てみたい衝動にかられるのは、お地蔵さんが単純な線で描かれているからです。

 そして賛に次のような言葉があります。

 「十方来正士 吾悉知彼願

   志求厳浄土 受決当作仏」

 あらゆるところに現れる菩薩は、私が浄土を目指し仏になることを願っている。と。

 

 

 美堂先生みたいな芸術作品には手が出ませんが、素人でも手掛けられる、それこそ、子どもたちが書いていた線描の仏画のお手本を持っています。

 本箱に眠るこの本はもう二十年も前の出版です。その頃から、書こう書こうと思いながら書けずにきてしまいました。

 この世の修行の目的は人それぞれです。

 私の場合、深い業想念の削ぎ落としだと分かっています。

 いろいろ遠回りをしてきましたが、いよいよ、その本来の目的に沿った修行を始める時かと、想ったりしています。