こころあそびの記

日常に小さな感動を

たいせつにしたいもの

 

 どなたがお世話されているのか、大きなクスノキの下にお地蔵さんがいらっしゃいました。

 後ろの公園では、高校生二十人くらいが、朝から元気にボール遊びして声を張り上げています。

 一瞬、ご近所さんからのクレームを心配しましたが、このお地蔵さま達を見て、大丈夫を確信しました。

 お地蔵さんを世話されているからには、子どもたちの守護を任されておられるはず。

 男子生徒たちが、大声で仲良く笑い転げる姿をうれしく思って通り過ぎました。

 

 

 ランニング中の男性が立ち止まって、実を踏んづけて確かめていました。あの後、無事にお家に入れてもらえたかな?

 

 

 ナンキンハゼの実がたくさんついています。

 

 

 「見て!柿が咲いてる」と叫んだ町の子がいたとか、いなかったとか。

 確かに遠くからでも、柿色と実の数は目をひきます。それにしても、枝が持ちこたえていることに驚きます。

 

 

 統計や記録で考えようとする現代人の横をすり抜けて、季節は気づいた時には一歩も二歩も進んでいます。

 稲刈り風景を逃すまいと思っていましたのに、この有り様。

 風景はさま変わりして、秋本番です。

 来月になれば、千里川にカモ達が帰ってくることでしょう。

 夏の間しまい込んでいたカメラを出して、準備しなくては。川沿いを歩く日が楽しみなことです。

 

 

 恥ずかしながら一席。

 毎朝、焼いたパンを入れるお皿を選ぶときに思うことです。

 いつも、欠けたのや古くて誰も使わないようなのを選び取ってしまう習性があります。

 主婦あるいは居候の身ですから、一見それで良いようですが、これは、自分を大切にしているとは言い難いのではないか。と、自分の修行の至らなさに繋げてしまうことが往々にしてあるのです。

 

 

 二十歳の頃に、ぶつけられた言葉、「あんた、それは卑下慢ですよ」。

 卑下慢は、仏教用語で、七慢の一つとされます。

 七慢とは、慢、過慢、慢過慢、我慢、邪慢、増上慢、そして、卑下慢です。

 卑下慢は一番やっかいと云われます。それは、卑下という蔑む気持ちと裏腹に、慢という思い上がりもあるという、複雑な深層心理を表しているからです。

 この言葉を投げかけてくださった先生とは、長い時間をご一緒したわけではありません。なのに、私の未熟さを見抜いておられたことに、感服するやら恥ずかしいやら。きっと、目に余ったのでしょう。

 

 

 ところで、何かを選ぶとき、満足して選ぶというのと、私にはこれが相応かとばかり控えめに選ぶのとでは、その心には格段の差があると思いませんか。

 まっ、これでいいかと妥協する自分は、心根の深いところでは満たされていないはずです。ひいては、自分を大切にできていないことを表します。

 若い時から指摘されているのに、ちっとも治らない根性。

 まだまだやなぁ。

 お皿を選びながら、毎朝、思うことです。