『致知』4月号の“巻頭の言葉”は高千穂神社の宮司、後藤俊彦さんが書いておられます。
その中に、『源氏物語』のくだりが出てきます。
光源氏が夕霧の元服に際し、「なお才をもととしてこそ、大和魂(やまとごころ)の世に用いらるる方も強うはべらめ」と言って聞かせたということです。
ここで使われる「大和魂」が、本邦で初出といいますから、紫式部が教養のみならず思想的にも飛び抜けていたことが分かります。
『源氏物語』が読み継がれてきたように、この大和魂が今も多くの国民の願いであり続けています。
この民の清浄直心を、忘れないようにと訴えて下さる後藤宮司の文章に天孫降臨の地を思い、この国に生まれたありがたさを思っています。
神様ばなしを伺ってきました。
それを知って何になる。という向きもあるでしょうが、日本という国土に住み着いた人々の感性を知れば知るほど、なんと不思議に満ちた国かと思わずにいられません。
『古事記』や『日本書紀』に出てくる神様だけでも相当数で、覚えきれないのに、実際には、そんな有名どころだけではないことに驚かされます。山川草木から石ころに至るまで神が宿ると感じられるのは、日本人特有の感性ともいえます。
どこか神社にお参りしたとしましょう。
本殿のお参りのあと、末社を巡られるのではないでしょうか。そこにも神様がおられるという気持ちは、参り続けないとなかなか腑に落ちないところです。
両親から人並みにしか神様ごとを教えられなかった私は、こんなに長く生きなければ、信心はその程度止まりだったと思います。
老いて時間ができたことで、持ち前の好奇心が神様に向かっています。
その昔、社殿が建ち上がったとき、村人はその屋根の上に真っ赤な火の玉が堕ちてきたのを見た、という謂われを持つのは市軸稲荷神社です。
そういう不思議。
科学が全てを解明すると信じている人には分かってもらえないことでしょう。見えない私には、その当時生きていたとしても、見えなかったに違いありません。
しかし、その現象を疑わず”畏れ“を持つことが大切ではないでしょうか。
事実、現代科学であっても解明できないことは、解明できていることの何百倍何千倍どころではないはずです。分からないことのほうがはるかに多いと思うことが、畏れに通じるのではないかと思ったりしています。
境内のそこかしこに、たくさんの神様がおられます、と云われると不思議に思いませんか?
神様に「私は此処がいい」と言ってもらうには、まず清浄であること。
久しぶりの晴天です。庭を掃き清めることから始めなくてはと思いつつ、どうなることか。出歩いてばかりで困った性分です。
追伸
思いは叶う。そんなことが起こりました。また明日。