こころあそびの記

日常に小さな感動を

護られて

 

 ドクダミが咲き始めました。

 彼らが根を張る場所は毎年決まっています。日陰か、または半日陰。

 この草の独特の臭いを嫌う人もありますが、私には子ども時代を彷彿とさせる雑草です。

 母に叱られたあとは、必ず草抜きという罰を命じられたものです。初めは、なんで叱られんとあかんの、みたいに文句も出るのですが、抜いてるうちに“無”になってきます。

 それが、気持ちいいんですよね。

 抜き終わって箒で掃いたら、雑い抜き方でもそれなりにきれいになって、達成感がもてる作業でした。

 そんな記憶が思い出される白い十字の花が、雨の中に咲く日も近いことでしょう。

 もうすぐ、梅雨入りです。

 

 

 今朝は、お弁当を作りながら、テレビが報じるニュースに胸が痛みました。

 それは、「2歳女児がパワーウインドーに首を挟まれて死亡した」という事故です。

 お母さまの悲しみを思うと、我がことのように思えて、胸が締め付けられました。

 

 追い討ちをかけるように、起きてきた娘が、このニュースに反応して「私もあった」と、当時を再現してくれました。

 家に着いて、車を駐車場に入れようとバックしていた時だったようです。

 うしろの座席に居た幼い娘が窓から顔を出して後方を見ているなんて思いもよらず、確認する余裕もなく、気が急いていました。

 が、間一髪、異変に気づいて大事に至らずに助かりました。

 

 それは、今から三十年以上前のことですから、パワーウインドーなどありませんでした。だから助かったというのは言い訳にもなりません。

 今回は、締まり始めたら止まらないパワーウインドーだったことが原因で亡くなられたようです。

 人間工学に基づいて製造されている機器のはずですが、思わぬ落とし穴が潜んでいます。

 そういえば、高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違いというのは、シフトレバーの煩雑さが原因とも聞きます。

 科学の粋を集めて、人間生活をより快適にと考え尽くすことが、この21世紀でもまだ完璧ではないなんて。

 それを、なんじゃ!と怒るより、人間だものというほうが私は好きです。

 

 

 「私、二回死にかけた」と、まだ、娘は続けます。

 そうだそうだ、もう一度は海でした。

 淡路島へ泳ぎに行ったときのことでした。当人にとっては、よほどの恐怖でしたから、決して忘れられない思い出です。

 流された浮き輪を独りで取りに行こうとして力尽きたのでした。うまい具合にそれに気づいた人が、助けに行って下さったおかげで九死に一生を得た顛末は、幼子には忘れられないことでしょう。

 今なら、海水浴場にはライフセイバーという見張りがありますが、昔はそんなものはありません。

 白浜のライフセイバーさんの素早い救助を目の当たりにして、幾度見とれたことか。

 子どもを連れて海に行くときは、ライフセイバーの居る海水浴場をお勧めいたします。

 

 2回も、子どもに辛い思いをさせたい馬鹿な母親です。

 だからこそ思うのです。どなたかのお力添えがあって生きていると。

 神仏が今日も私たちをお守り下さっていることに深く感謝申し上げます。