こころあそびの記

日常に小さな感動を

トマトの作り方

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 菜園に植わっている数ある野菜の中で、ビニールの覆いが掛けられているのはトマトだけです。
 「主人に、トマトに水やりはしないでね、と言ってるのに毎日、夕方の水やりをしてしまうので困っています」という微笑ましいコメントが、ラジオから流れてきました。
 その後、トマトはお水を絶たれることによって、「えらいことになった」と、子孫を守るために実に養分を溜め込むようになることを知りました。結果、甘くて美味しいトマトになると聞いたとき、全てに共通する法則なのだと腑に落ちました。
 一つの例として、妊娠中の「つわり」があります。食べなくちゃ、赤ちゃんのためにも食べなくちゃと思いやりの言葉を周りから頂戴するかと思いますが、実は、栄養を赤ちゃんに向けるために、食べられなくなるのだと聞きました。余計な代謝活動を止めて、胎児に集中できるように仕組まれている。いのちの営みの凄さを感じます。
 同じように食糧を絶つことで身体に生まれるのが長寿遺伝子です。
 戦時中の食糧難を経験した人たちは長生きすると聞かれたことはありませんか。栄養不足の人が長生きとは矛盾しているようですが、事実です。
 食べられないから、身体が自分でなんとかしなくちゃと働いて、遺伝子レベルで生命力を上げるのです。
 近頃はそれに気づいた人から小食を心がけるようになってきています。でも、食べたいと思う気持ちがあるのに無理に小食にする必要は全くないことはお伝えしておきます。
 いのちは自由を尊びます。いのちのままにが大原則です。


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 朝刊に、先頃亡くなられた村上和雄先生のご著書の広告が掲載されていました。
 村上和雄先生は遺伝子解析という最先端をいく科学者でいらっしゃいますのに、常にsomething grate(サムシング・グレート)という言葉を使われて、科学万能時代に忘れてはならない戒めを楽しく教えてくださいました。
 「笑いの効用」を説かれて、吉本新喜劇で実験されたのも先生です。笑えば元気ホルモンが出ます。笑いましょうと。
 一度、ご講演を拝聴する機会がございまして、楽しみにして参上しました。その時の、博士という匂いの全くないお姿に、緊張もどこへやら消えていったことを覚えています。
 広告の中のご本の紹介に「遺伝子を読んだ人間より、それを書いた何ものかこそ偉大」とあります。
 これを、生涯をかけて訴え続けられました。
 科学のミクロの世界を見たからこそ、「生きているのではない。生かされているのだ」を実感されたのだと思います。

 やれ薬だ、ワクチンだ、と病気は薬が治してくれるという思い違いが横行する時代になりました。病気は薬が治すのではありませんと言ったら大方の人に怪訝な顔されると思います。
 しかし、指先の小さな怪我も、腰痛も、よくよく観察してみたら、自分の身体が治してくれていることに気づきませんか。
 大病している私にはそんな空言は要らないとおっしゃっる方もあるでしょう。でも、たとえ床に臥してるときでも、ずっと寄り添ってくれて、なんとか治して元気になろうとして頑張ってくれているのは自分のいのちです。
 一生を二人三脚で生きてくれるいのち。それを授けてくれたのは、ほかでもないサムシンググレートなんだよと村上和雄先生はおっしゃっています。
 最期の瞬間まで決して裏切らない大切な親友、それがいのちです。ありがとう。

『琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~ 』

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 仕事が急遽、昼からになったので、午前中に『琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~ 』のラスト三話を駆け足で観ました。
 大雨が屋根を打つ音も耳に入らず、ドキドキした時間を過ごしてしまいました。
 
 このドラマを見始めた時には、大人数の出演者の人間関係がわからないし、字幕を読んでいるうちに画面が先に進むから俳優さんのお顔も覚えられなくて、何度も挫折しそうになりました。
 それでも、最後まで観ることができたのは、大形先生の授業で中国に触れさせてもらったおかげだと思っています。
 この年齢まで、日本の歴史にさえ興味なく、ましてや中国の歴史なんて全くのよそ事でした。年代も国も地理も知らなかった私に、案内書を授けてもらいました。齧ってみれば世界が広がりました。一歩踏み出すことは、楽しみを増やすと知りました。
 
 中国ドラマの中の調度品や装束には飽きない美しさがあります。
 また、書庫には竹簡が並んでいるのに、新しい記録は紙に書かれる様子からは、紙の発明がこの頃であったことがわかります。筆使いの美しさも見ものです。
 現役の薬剤師としては、生薬が頼りの時代の漢方薬も楽しみです。昔の人達が健康に過ごすためにどのような気遣いをしたかという点も見所ではないでしょうか。

 テーマは梁の時代の王座の争い。
 他のドラマと違うところは、登場人物が殆ど男性で、恋のウエートが極端に少ないところです。
 つまらないはずが、結局、成就しない恋という餌で最後まで釣られてしまいました。
 
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 人はそれぞれに感動できるツボが違うから、世の中にはストーリーが溢れています。
 どんなお話がお好きですか?
 私は、みんなで何かを成し遂げるというストーリーに惹かれます。肝っ玉が小さいから、壮大な話を好むのかもしれません。
 今、まさに進行中のワクチンの接種に蠢く多くの人々の話や、オリンピックの開催に漕ぎ着けた人々の話は、いずれ書物や映画になることでしょう。
 しかし、真実がどれほど描かれるのかは、いつの時代も藪の中でありましょう。
 残念ですが、歴史に記録が残らない当事者だけが知る真実は多いはず。だからこそ、後の世の人は脚色し易いともいえます。想像の余地が残されているからです。
 『琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~ 』も、想像上の人物のお話です。けれども、その時代に現れるべくして現れ、時代に翻弄された一男子の苦悩と信念は本物であったと思いたいものです。
 
 ラストシーンで、ようやく恋を匂わせます。
 本懐を遂げるための戦に出発する主人公に、許嫁が「無事に帰って」と懇願します。
「縁は来世に続く」と応えるところで涙です。
 こんな男子に出会ってみたかった。
 贅沢な朝時間でした。

香りの日

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 近くのスーパーで自分の目を疑うような魚に出会いました。なになに?と近寄ってみたら大きな”マンボウ“でした。
 マンボウなんて水族館で見るものだと思っていたのに、ここで見られるなんて。
 店長さんの心を推し量るに、「雨が続きますが、みんな元気出していこう!」ということではないかと思いました。
 ここの店長さんはそんな方ではないかと思っています。お魚部門のイキのいいお兄ちゃんは親切だし、お肉部門のおじいちゃんも働き続けておられるし。
 そんな小さな心遣いを顧客は意外に見ているものです。
 マンボウくん、ありがとう。なんだかほのぼのとしましたよ。


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 今日は7月7日の七夕さま。皆さん短冊は書かれましたか?
 残念なことに、今夜は大雨です。梅雨最中に織り姫さまと彦星さまが出会える確率は低すぎます。それもそのはずです。
 もともと七夕は旧暦で設定されたもの。今年の旧暦七夕は8月14日です。
 お盆はペルセウス流星群が見られる楽しみもあります。夏の大三角と流れ星は8月にお預けといたしましょう。

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 本日は「香りの日」だそうです。

 香りというものは、思いの外、身体に効くということをご存知でしょうか。
 それは、鼻をつまんで食事をしてみると分かります。味は殆ど感じられなくて、美味しいともなんとも感じない経験がおありでしょう。
 鼻の奥で脳と直結している嗅覚という感覚は、いろんな感覚器官の中で一番鋭敏で効果の早いものです。
 漢方薬も、上級者は、お湯に溶かして香りを嗅いで味わいながら飲むと効きがよくなるといいます。それほど、嗅覚から入る情報は早く確実に伝わる証拠です。
 ですから、使い方を間違えると悪い効果も出てしまいます。
 中国ドラマ「宮廷の諍い女」では、麝香を潜ませたお香で流産させるという手口が出てきます。どんな高価な薬でも、使い方次第でしょう。
 それにしても、中国の宮廷では常にお香が焚かれていて驚きます。匂い消しの意味なのか、心と体の健康のためなのか。どのシーンでも大きな香炉から煙が立ち上っています。
 ちなみに、この煙が上って行く先は天であり、天と地を結ぶ働きをお香に託しているという意味もあるようです。
 もう一つ、香りの持つ大切な効果に「気」を動かす力があります。気持ちいいなぁ、と感じるときに「気」が動きます。その「気」というエネルギーが滞った「水」を循環させるのです。
 身体が重く感じるこの季節。香りを利用しましょう。
 食品なら匂いのあるもの。紫蘇、生姜、ねぎ、茗荷、セロリ・・・。特に紫蘇は水を乾かす効能があるので、この季節の必需品です。
 最後に「お香」は湿気た気持ちをさっぱりさせてくれます。「なんか、このごろ頻繁にお線香焚いてくれるな」と仏壇の中の父母に思われてるかもしれませんが、実はお供えじゃなくて、自分が好きな香りなのです。ごめんね。

フレーフレー!

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 昨日たまたまつけたBSで、寺田明日香さんを拝見しました。
 お名前は耳にしたことがありましたが、競技されている姿は初めてでした。
 なにせ、恥ずかしながら、自分では精一杯に走ったつもりでも「走ってこい!」と体育の先生に叱られっぱなしの運動音痴です。ハードルを飛んで、走るなんて仙人の世界です。
 テレビは、寺田さんが24歳で一度は引退されたこと。その後結婚、出産も経験されたことを伝えていました。
 「今回、なぜ復帰しようと思われたのですか?」という質問に、
 「あの頃、たくさんの人に応援してもらったことを嬉しく思い出して、また、みんなを喜ばせたいと思ったからです」と、応えられていました。
 そして、何年かのブランクがあったのに、女子100mハードルのオリンピック代表に選ばれるという快挙を勝ち取られたなんて驚異です。
 彼女の再びの夢を実現させたのが「みんなの応援」だったということに深く共感を抱きました。

 誰かが自分を見てくれている。応援してくれていることを知ることで人は孤独から抜け出せるし、明日も頑張ろうという気持ちが湧いてくるのですね。
 そして、これが一方通行ではないことに神慮を感じます。
 誰かを応援している自分も元気になっていることに気づきませんか。そうなんです。応援は双方向なのです。熱い「気」があなたと私を結んでいる瞬間は、双方で元気を分かち合っているのではないでしょうか。

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 近頃、何かの拍子に、母が傍にいるように感じることがあります。
 「もう、あらかた仕事も済んだし・・」と話しかけるでもなく心に浮かぶ気持ちを吐露しますと、
 「あかんあかん。まだ、あんたがしたかったこと済んでない」と返ってくる。
 生きてる時には、一言一言が厳しくて励ましには聞こえなかった母ですのに、今、聞こえてくる言葉は胸に響きます。
 あぁ、応援してくれている。そう思うと、もうちょっとだけ頑張ってみようと思う今日この頃です。

 オリンピックが近づいてきました。
 他人になんと言われようと、私は選手の方々を心から応援します。その一瞬にかけるために歩んだ道に涙しながら。

老年を生きる

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 こんな相談を受けました。どこのお家にもありそうな一件です。
 「父がね、ふらつくというので、近所のお医者さんで診てもらったんです。特に異常は見当たらないという診断に本人は不満らしいんです。大丈夫だと言われたんだから大丈夫。と言い聞かせても、納得しないんです。私もセカンドオピニオンを頑なに止めて、本当に何かあってもイヤだし困っています。」
 別の病院で診てもらうべきか否か。
 お父様が行きたいとおっしゃるなら行かせてあげるべきじゃないかと思います。
 人は誰でも全ての選択権を持っていますから、たとえ家族であってもそれを阻止することは許されないことでありましょう。
 ご相談の方は五十代。お父様は八十代半ばです。
 私もこの年になって、ようやく分かることがあります。五十代には分からなかったことがあったと思うのです。
 例えば、まだ元気いっぱいの五十代なら「長くは生きたくないわ」と言ってた人が、八十代になると何故か生に固執するようになることを多々見かけます。
 死が現実のものとして近づくと、意識はせずとも逃げたくなるのが人間です。生あるものが輝いて見えるようになってきます。「ええなぁ」と柔らかな孫を抱きしめたり、「今年の桜は殊の外きれいや」というふうに。
 だからこそ、自分のしたいようにして、悔いを残さない選択をすべきだと思います。
 たとえ、別の病院に行ったために大きなリスクを負うことになったとしても、それが、この世のご縁というものだと決め込むことです。

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 孔子の「七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず」という言葉が好きです。
 若い時には、社会規範に従わざるを得ず、自分を抑えて生きてきたのですから、老年には縛りのない自由を謳歌してもよろしいのではないでしょうか。
 ただし、孔子の言葉の後半は考えるところです。心のままに自由であっても「矩をこえず」に生きるには、鍛錬が必要だと思いませんか。昨日、今日に完成できるとは思えません。自由に生きて周りに許される人になる。魅力ある憧れの人間像です。
 老後の生活といえば、直ぐに「お金」とか「人生設計」などが言われますが、本当に必要なのは、いのちに対する考え方を練ることではないでしょうか。
 あるいは、未来の世界ではいのちは大きく変質して、つまらないことを考えることが不要になるのでしょうか。でも、もしそんな世界になったら、人間は完全にロボットですね。
 今、二十一世紀にあっては、まだ、いのちがロボットコントロールされていないのですから、いのちの在り方を考えてもいいように思います。
 そういう私も八十代になったら、また、考えが変わっていたらごめんない。

『雪の花』

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 吉村昭さんの『雪の花』を読みました。
 感染力が強く致死率も高く怖れられていた「天然痘(疱瘡)」に、立ち向かった福井藩の町医者、笠原良策の奮闘の記録です。

 ジェンナーが天然痘より少しだけ毒性の弱い牛痘にかかった乳搾り女が話した、「牛痘にかかったから、天然痘にはかからない」という言葉に引っかかりをもったことから、種痘という方法を編み出しました。
 それは、1796年のことでした。
 ジェンナーの種痘という方法が、江戸後期、長崎から蘭方と共に伝来はしましたが、漢方医には、西洋の医学を受け入れる素地がありません。
 良策はもちろん純粋な漢方医でしたが、毎年、天然痘でおびただしい死者が出ることを人一倍憂慮していたことから、この西洋の方法を試してみようと心を決めました。
 何とかしたい。その一念を貫き通した人生でした。
 小説は、良策の奮闘記なのですが、それはそのままジェンナーの試行錯誤と重なるものでした。
 
 誰もわかってくれない新しいことを始める人に必要なものは、信念だけです。たとえ間違っても後には引かないくらいの激しい情念です。
 湖北から福井は豪雪地帯です。ここを女、子供と一緒に山越えする場面がクライマックスだから、『雪の花』と題名を付けたとありました。
 
 今、期待を集めるワクチン。ラテン語で「牛」からきているそうです。
 もっとも、今回のワクチンはジェンナーや良策が施した種痘とは根本的に違う種類のものです。
 それでも、予防策として、何らかの手を打ちたいという勇気は彼らと同じです。
 
 ジェンナーから二百年。未来に生きる人々に届けられたワクチン。
 時々、そういう使命感に燃えた人が出現するおかげで、大勢のいのちが助かります。
 利他精神。
 持って生まれた人々にはかないませんが、凡人には凡人の使命があります。
 
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 心理学では、「人に親切にされたときよりも、人に親切にしたときの幸せの方が三倍長続きする」という言葉があるそうです。
 こんな時だから、マスクで隠れていない眼の力が威力を発揮します。
 笑っている目、真っ直ぐに見つめる目、静かな目、エネルギー溢れる目。
 優しい目で「ありがとうございました」と言われると、こちらこそと言いたくなってしまいます。

山の神

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 私が学生だった頃、「林業」という仕事は風前の灯火でありました。
 そうなっても仕方ないというほどきつい仕事であることを、その後、私も知ることになります。
 それは、義兄が、山で松食い虫の被害を食い止めるために松を伐採中、思わぬ方向に倒れてきた大木の枝で背中を強打して半身不随になった悲しい事故を経験したからです。
 山は怖いもの。それは忘れられない教訓です。

 それでも、木々は私達の生活になくてはならないものであります。なぜなら、私達自身が自然界の一員であり、樹木の仲間だからです。木の側に居ると、落ち着くという感覚は全ての人がお持ちでしょう。
 オリンピックの競技場や会場にもたくさんの木材が使われているといいます。それは、リラックスした中で集中力が発揮できるという、樹木の恩恵を考えてのことです。選手の皆様が清々しい気持ちで競技に臨んでいただけたらと念じます。

 折しも、朝ドラ「おかえりモネ」では、林業がクローズアップされています。登米という“森”と、気仙沼という“海“が、水を通して循環していることをテーマにしています。
 海と山は守り合っていることが認知されるようになって、若い人にその重要性が伝わればいいなと思います。
 離れた海と山をつなぐものは、水であり、養分です。緑豊かな山が、豊穣な海を実現します。
 あらゆる生物はこの大きな循環の中で健康に生きることができるように作られていて、この循環を外れた所にいのちはありません。


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 どうしたことでしょう。また言葉をなくすような出来事がありました。
 私達を支えてくれているはずの自然が牙を剥きました。
 毎回毎回、手を変え品を変え場所を変えて、襲いかかってきます。全てを巻き込みながら、山から谷に沿って下る土石流の映像は恐怖以外の何物でもってありませんでした。
 あらためて、誰もが、災害被害者になる可能性があることを覚悟しておく必要があります。
 しかし、どんな災害地も、当初の取り乱しが収まった後、人々は必ず前を向いて歩き始めます。
 この世で経験させられる障害は、人それぞれです。でも、それらを乗り越えたという自信が、奢りではなく謙虚さになって人は育てられていくのかもしれない。そうでも思わないと、天の計らいごとの意味がわからない浅はかさをお許しください。
 怖い思いをされた皆様のご無事を祈るばかりです。