こころあそびの記

日常に小さな感動を

透明なお茶

 

 金木犀も泰山木も、模様替えをすっかり済ましたようで、茶色の葉っぱが吹き溜まっています。

 かさかさという踏み音の楽しみが、秋だけではないことを、この年になって知るところとなりました。

 山道がいつも落ち葉で覆われているのは、春にも世代交代をする木があるからなんですね。

 子どもの誕生を見届けてから去りゆく親の葉っぱを、愛おしく見られるようになりました。

 

 

 樹上を見上げれば、花の準備は完了です。入梅すれば、開花が始まります。曇天下の白い花。

 その日が近づいてきました。

 

 

 庭石菖が広がりました。

 それを喜ぶ家人あり。

 

 

 玉ねぎの収穫。小さめですが、来年も挑戦するそうです。

 

 

 昨日、お下がりお饅頭を緑茶と共にいただきました。

 やはり、和菓子には日本茶です。

 お互いに相手を立てあいます。

 甘味の邪魔をしない控え目さをもちながら、渋味で自己主張もします。

 そして、この静かな透明さが日本を表しているようにも感じました。

 

 日本の川はどこも美しい。

 それを知ったのは、タイでメコン川を見たときでした。

 その土地で当たり前に思うことは、他の土地で育った人には当たり前ではありません。

 そこから、その土地独特の文化が形成されるのではないでしょうか。

 「ひとに迷惑かけたらあかん」。

 「お世話になります」。

 千年以上こう言い継いだことと、この国のかたちは無関係ではありません。

 

 過日、韓国から交換留学生としてやってきた若者が「日本の食べ物は身体に良さそうですね」という感想を漏らしました。

 かの国の辛味文化からは、考えられないものだったようです。しかし、彼は、日本の味を毛嫌いするのではなく、受け入れてくれました。

 その素直さに家人はハートを掴まれ、好感を持ちました。

 人として成長を遂げている青年でした。

 

 人は生まれた土地で育ちます。その環境を選ぶことはできません。

 私たちは、たまたま美しい国に生まれたのです。

 神事を思い出しながら深く感謝したことです。

春日神社本殿竣工祭

 

 本日、春日神社本殿の竣工祭が執り行われました。

 願ってもない好天気に、春日神社の守り神さまがご参集されていることを感じました。 

 お式の間、神社を囲む木々の上で小鳥が鳴き交わし、空は晴れ渡り、宮司さんのご挨拶に出てきたように、まさに絵に描いたような”麗しい日“でした。

 

 

 春日神社は桜井谷の氏神さまで、野畑、少路、内田、柴原、南刀根山、北刀根山を守護する神社だったようです。

 創建年代は不明ながら、835年に社殿の修繕をしたと記録があるそうです。

 その後、度々、兵火や戦火に合いながら、1650年に漸くこの地に遷座して、現在に至ります。

 

 

 この度の大改修は二年間を要し、めでたく竣工の日を迎えたというわけです。

 改修を請け負ったのは、「金剛組」。

 この方々がおられるから、神社仏閣は永く受け継いでいくことができます。

 宮大工という仕事は、千年先の人達のためにあります。だから、今やれる最高の仕事をする。

 千年先の人への贈り物とは、なんと素敵なお仕事でしょう。

 この夢に賭ける。そんな「金剛組」に憧れと敬意を持っています。

 

 

 ところで、桜井谷という地名の起源の一つに、古代、桜井宿禰(さくらいのすくね)という豪族が住んでいたからという説があります。

 この豪族は、製陶技術を持っていた集団だったといわれています。

 この桜井谷付近は土器作りに適した土が取り出せたようで、窯跡が見つかっていることからも製陶が盛んに行われていたことがわかります。

 

 

 今日、境内で薬師井戸の起源をよくよく読んでみたら、ここにも「桜井」のいわれがありました。

 春日大社からお使いにやってきた神鹿が怪我を癒やした井戸の傍らに、桜の名木があったというのです。

 桜井宿禰伝説も、九重の桜の名木説も、どちらも遠い昔を彷彿とさせます。その時から、神々さまがずっとここに鎮座され、氏子を守り続けてくださったことに、感謝です。

 

 

 閑話休題。私が住んでる桜井は、おそらく、阪急電鉄が開発するにあたって、桜井谷から拝借して命名された地名ではないかと推察します。

 正真正銘の氏子ではないのですが、同名のよしみでお参りしています。

 薬師井戸の上に薬師堂があります。

 「おんころころせんだりまとうぎそわか」と薬師如来真言を唱えた後、少彦名神さまに祝詞を奏上します。

 「行く先励ましめ給いて、心豊けく身体健康に守りたまえ」。

 ちょっと、落ち着く場所です。

 

 

 竣工記念のお土産券を頂戴していましたので、厚かましく「鶴屋八幡の紅白薯蕷饅頭」をいただいて帰ってまいりました。ありがとうございました。

当帰とは「当に帰るべし」と読みます

 

 躑躅(つつじ)が終わり、入れ替わるように皐(さつき)が咲き始めました。

 躑躅よりも少し小さめの花が低い木を覆うように咲くところがかわいいです。加えて、躑躅より豊富な花色も魅力の一つです。

 

 

 先日、当帰芍薬散の「当帰」の由来を書きました。

 「当(まさに)帰(かえる)」と。

 帰る家が嫁に入った先とは、女の歴史を感じることでした。

 

 これを、聴講時に話したら、いろんな説が噴出しました。

①地名説

 甘粛省の当帰の主産地が、唐の時代は当州と呼ばれていた。

②発音説

 帰(qi)と同じ発音の香草(qi)があった。

③「本草綱目」説

 当帰は婦人の要薬。女の病は夫に関わりある。夫に帰ってきて欲しいから当帰。

④「三国演義」説

 母親が息子に会いたくて、手紙に当帰を入れたという話しがある。

⑤映画説

 妻が夫に帰ってきてほしくて当帰で自分の思いを伝えるというシーンがあった。

 

 などなど、“当帰”をふったばっかりに、学生さんのお手を煩わしてしまいました。

 それから、私のうろ覚え、「当に帰る」は漢文的に間違いで、正しくは「当に帰るべし」と読むと指摘されました。

 訂正して、お詫び申し上げます。

 

 

 それにしても、なんと奥の深い分野なのでしょう。

 中国哲学のなんたるかも調べずに、聴講し始めたので、あらためて調べてみました。

 「哲学とは、古今東西の哲学者がさんざん考え抜いてきたことを、これ以上考えてもしょうがないところまで考えること。

 それには、千里の道を行く気概が必要であり、先人の業績を原典で読むことが、不可欠。」らしいです。

 漢文がチンプンカンプンの私は、そこでアウトです。

 

 

 昔は、原典を一つ一つ解読することから始めなければなりませんでした。時間がいくらあっても足りなかったことでしょう。

 あそこに書いてあったはずという検索は自分の勉強量に比例したことは歴然です。

 

 

 今も、勉強量は変わりはありませんが、近年、検索にPCを使えるようになりました。

 それでも、『説文解字』や『四庫文書』など、漢字しか並んでない文書を研究する人の根気には、感服しかありません。

 

 

 時々、授業で教えてもらった漢字の成り立ちを家人に披露することがあります。

 「へぇー、そんなことも勉強してるの?」という反応がうれしくて、来週も頑張ろうと思ってしまいます。

「天神川」2

 

 飛行機雲がこんなに消えない朝は珍しいことです。

 みんな、どこへお出かけしたのかなぁ。

 晴天のフライトは気持ちいいだろうなぁ。

 空飛ぶ人に思いを致す希望の朝でした。

 

 さて、昨日の続きです。

 

 

 お参りするたびに、この歌碑が気になりつつも、読めない自分を情けなく思っていました。この歌には、きっと天神川の言い伝えが歌い込まれているはずだと感じていたのです。

 

 先日の天神川氾濫のニュースを聞いて、直感的にこの歌を思い出しました。

 これを機会に、ひとに教えを乞うてでも知りたくなりました。

 真っ先に、宮司さんにお電話で伺ってみることにしました。神社ならご存知だと思ったからです。

 

 

 電話口に出てくださったのは奥様だったでしょうか。「少し時間を下さい」と対応されました。

 

 折り返し、夕刻にお電話くださったのは、宮司さんでした。

 「書道の先生にも来ていただいて、一日かけましたが、はっきりとは・・」というお返事。

 「ごめんなさい。ご面倒おかけしてしまいました」。すっかりお疲れさせたことをお詫びしたことです。

 

 へとへとになりながらも、わかったことを教えて下さいました。

 歌の作者が温故菴主さんであること。書家は山中恭香さんであること。

 

 宝塚ファンの一人としては、書家の山中さんが宝塚の生徒さんであったことに大感激!

 昭和27年入団の「朝凪美船さん」だそうです。ご存知のお方はおられますか?

 表(おもて)山中宗泉会という書道会を主宰されていた山中宗泉さんのお嬢さんではないかと拝察します。

 

 その他にも、宮司さんは天神川について、興味深いお話を教えてくださいました。

 

 山側が開発される前の天神川には、湯床から冷泉が湧き出て、”湯の花“が流れていたそうです。長旅の巡礼者を癒やした流れであったことが忍ばれます。

 

 更には、この村の「とんとこ祭」という御輿や稚児行列が村を練り歩くお祭りは五年に一度、今も開催されているそうですが、残念ながら、今年は5月5日に挙行済みであると教えられてがっかりしたことでした。

 お祭りで、御輿を練り回すのは、今は陸上だけですが、昔は天神川に入って水が濁るほど威勢良く行う川渡御もあったようです。面白いことに、その川渡御のあとの濁った水を塗れば、あせもやくさ(おでき)によく効いたので、薬缶に入れて持ち帰るのがお決まりだったと聞けば、天神川の”くすり水“の起源が、ほぼ解明できたも同然です。

 

 そこで、こんな風に心で読んでみました。

      天神川

  この神の めぐみなるかな

  くすり水

  流れたえせぬ 天神の川

 

 先人が、その土地につけた名前からは、土地の起源が想起されるものです。

 天神川には、人々が天神と敬うわけがありました。

 

 

 翻って、区画整理と称しての町名変更は、その土地の神様との縁を絶ってしまうことになりかねません。

 それこそ、神と住民との約束破りです。自然と共存していた昔の人の知恵は、現代人の比ではない。それを知る人が少なくなったことに危惧の念を持つのは私だけでしょうか。

 そんな事を考えさせる有意義な歌碑調べになりました。

 

 宝塚巡礼街道。久しぶりに歩きたいなぁ。

 今度行くときは、歌碑の前で意味をかみしめたいと思っています。

「天神川」

 

 「太陽が熱い!」と、洗濯物を干している娘が叫んでいます。

 そういえば、夕方の散歩で見る太陽の落ちる方角が、いつの間にか宝塚方面に近づいてきました。六甲山を挟んで、冬は南側の明石海峡へ、夏は、北側に移ることに気づいたのはいつの頃だったでしょう。

 あと一ヶ月もしたら、猪名川斜張橋あたりに沈んでいくことでしょう。

 そうなれば夏至です。暑くなりますね。

 

 

 先日の大雨のあと、全国ニュースで報じられた「天神川」。どこにでもあるんだなと、聞き流していました。

 伊丹市と聞こえてきたときには、びっくりして、画面に釘付けになりました。

 とんでもないことが起こったのですね。

 

 

 西国三十三カ所の23番札所である箕面勝尾寺から、24番札所の中山寺に通じる「巡礼の道」。

 その途中、山本付近を流れているのが天神川です。

 このあたりは昔から植木屋さんの町です。川から良質な川砂が取れたことも植木を育てるにはうってつけの場所でした。

 また、山本駅前に「木接太夫」の大きな石碑が立っています。接ぎ木名人の称号をもつ植木職人が、この地から輩出されたことが、今に繋がっています。

 植木屋さん巡りも楽しい散歩道です。

 

 

 ところで、天神川は幅、数メートルの細い川で、 川底に這うように優しく水が流れているのが常でした。

 その川がどうして堤防を決壊するほどに暴れたのか、信じられないことでした。

 そのわけは、このところ何度も耳にする「想定外」です。

 予想をはるかに超えた雨が降ったといいます。

 

 折しも、天井川の下を通るトンネルを改修する工事がなされている最中でした。

 工事にかかる時期は熟考されたはずです。雨量の少ない5月を選んだまでは良かったのです。が、川をせき止める工法に問題がなかったのでしょうか。溢れ出した原因は、人間の甘い判断も一因かもしれません。

 あんな優しい川の水でも、こんなことになる。この手痛い経験は忘るべからず。伝えていかねばなりません。

 小さな川が教えてくれた大きな教訓です。

 

 「天神川」は明日に続きます。

老いを忘れる極意

 

 先日来、桜の木で雀たちがチュンチュンと楽しそうに集っています。

 そのわけが分かりました。さくらんぼというには小さすぎる赤い実を啄みに来ていたのです。

 実がなることは知っていました。ですが、いつ見ても、先端部がない軸ばかりが枝に残っていたのです。

 自然に落ちたのかなぁと思いながら観察を続けていたところ、本日、こんな赤い実を遂に見つけました。

 これで辻褄が合いました。

 どうぞどうぞ。いっぱい食べてね。  

 君たちが遊びに来てくれるおかげで、大いに楽しませてもらっていますから。

 

 

 ご近所でみかんの花が咲いているのを見つけました。失礼して、鼻を近づけて嗅いでみたら、あの大好きな匂いが香っています。

 出不精しているうちに、もう、そんな季節になっているのですね。みかんの花が教えてくれました。。

 

 

 小さい小さいカナブンの赤ちゃんを見つけました。こんなに小さくても、真昼の太陽を浴びて、玉虫色に光っています。大きく育て。

 

 

 豆がこんなに早く育つものとは知りませんでした。

 「お母さん、早く食べてよ~どんどん大きくなるから」と云われました。

 実が薄いときには、サヤエンドウ。太ってきたらスナップエンドウとして食べられるそうです。

 お弁当の彩りに重宝しそうな豆たちです。

 

 

 雑草という草はない。

 『らんまん』は、私みたいに優しさの”や“もない人間にも変化をもたらしています。先ずは、路傍に目をこらす癖がついてきたことです。

 これを『らんまん』効果とするなら、番組終了時にアンケート調査してみる価値がありそうです。「番組を見て、草花へ関心を寄せる場面が増えましたか」と。

 

 ところで、玄関脇に生えているこの雑草は、「アメリカフウロ(亜米利加風露)」という名前です。

 なんと、苦くて有名なゲンノショウコと同類で、薬効も同じです。

 ゲンノショウコという名前は、飲めばたちまちのうちに薬効が現れるところから付けられたそうです。おもしろい!

 と、調べれば調べるほど、深入りして際限のないことです。

 

 庭で遊んでるだけで、世界は広がります。時間を忘れて遊べます。

 そういう感覚が老いを忘れさせると、孔子が言ってます。

 

 不知老之将至也云爾。

 (老いの将に至らんとするを知らざるのみと)

 

 心が楽しんでおれば、老いの近寄っていることさえ忘れます。その時間を持つことが、健やかに過ごす極意だそうです。納得。

雨の日曜日に想うこと

 

 雨の日曜日。

 ゴールデンウイークの間、こらえてくれた雨です。本日は恵みの休養日といたしましょう。

 静かに落ちる雨音はそれだけで気持ちを鎮めてくれます。ゆったりと身をあずけて過ごしたい一日です。

 

 

 が、それを満喫できるのは年寄りだけの特権というもの。

 子育て最中の家人たちには、とてもそんな余裕はないようで、リビングから聞こえてくるのは、受験期の孫たちへの叱咤激励です。

 そんな様子を窺いながら、自分自身も受験を控えた子どもたちと過ごした嵐のような日々を思い出しました。できることなら、自分が代わりに走ってやりたいと幾度思ったことでしょう。

 「いいなぁ。~君はよくできるから」というのは、浅はかな言葉です。

 「その子なりに、みんなしんどいやよ」。

 受験生のいる家庭は、どこも緊張の解けることがない一年を過ごします。

 通り過ぎた今、思うことは、なるようにしかならないということ。そして、すべてはどなたかのお導き通りに運ばれていくこと。そんなことを学んだ気がします。

 ということは、要らない経験はなくて、どんなことにも意味があるという言葉が浮かんできます。子育てほど、自分を育てることのできる経験はありません。得難い日々でした。

 娘家族にとって、今から数年間は子育ての最終コーナーです。無理をせず、なんとか無事に走り抜けて欲しいと願って見ています。

 

 

 忙しい孫たちに比べて、私の頃は塾などない暢気な時代でした。

 高校受験が迫る頃。私の成績を案じて、母が探してくれた英語の先生にお世話になったことがありました。

 一教科がんばれば、その他の教科も底上げできるからと励ましてくださって、夜間でも、電話で授業をしてくださることも度々でした。

 あの先生には預かったかぎりは責任を持つという気概がありました。その緊張感が生徒に伝わって、いい循環ができあがっていたのだと思います。

 せっかくの熱血指導を、その後、生かすことも出来ずじまいになり、申し訳ないことをしたという悔いは心に刺さったままです。

 

 

 ひとりの生徒を預かるということが、どういうことなのか。昔の師弟愛が生まれた理由は何なのか。

 子どもたちに沁みるメッセージは、先生の奮闘ぶり以外の何ものでもないことは、今も昔も変わらないかもしれません。

 

 

 ところで、恩師のお宅の横を通るたびに、なんと意気地なしなんだろうと自分を恥ずかしく思います。

 というのは、あれだけお世話になったのに、多忙を理由に足が遠のいてしまっているのです。ご無沙汰が過ぎて、呼び鈴を押そうとすると手が震えます。

 雨音で心が耕されたのか、ひさしぶりに、教師の矜持を持った先生のことを懐かしむ心境になりました。

 次に通る時には、勇気を奮って呼び鈴をそっと押してみたいと、密に誓っています。