こころあそびの記

日常に小さな感動を

最期の時

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 「痛くない死に方」なんて、どれほど真剣に生きたら、こんなド直球な題名を付けられるのでしょう。
 先週末から公開されているこの映画は、長尾和宏医師の研修医から今に至るまでの道程が描かれています。
 医学部で学ぶことは、「いかに死なせないか」ということです。それは医者としての基本の勉強でありますから、これに手を抜くことは御法度です。
 しかし、時を経て、いろんな看取りを経験するにつれて人としてどうなのかと考える医師が出てきます。出てきて欲しいです。長尾医師はそのお一人です。
 最期の山を長尾和宏医師は「死の壁」と名付けています。この時、どんな医師に縁があるかで、死に方は変わってきます。
 例えば、患者が何かいつもと違うと察した家族は当然のごとく、往診してくれる医者を探します。そこが第一関門です。なぜなら、どんな対応をしてくれるかは、医者によって違うからです。
 「これは、もう、家で診られる範囲を越えていますよ」と医者に言われれば、家族は焦って病院に送り込んでしまいます。
 でもそこに、もう一言付け足してくれる医者もいるはずです。「どうしますか?家での対応も一緒に考えてみますか」
 初めて看取る家族にとって、そんな方法があるなんて思いもしないことでしょう。
 しかし、考えてみれば、昔はみんな家で亡くなりました。私も小学生の頃、おばあちゃんを家で見送りました。最期まで見届けたからなのか、悲しくて一生分泣きました。
 今、家で最期を迎えることが医療の発達のおかげでできづらくなるとは皮肉なことです。
 長尾医師はそのことに気づかれたのだと思います。
 人間らしい最期とは何かを考え抜かれ、悩み抜かれたことと拝察します。
 答えはないと思います。
 なぜなら、人の死は計画できないからです。何のご縁かわかりませんが、どなた様かに頼まれた人が寄ってきて見送り隊が結成されるのでしょう。
 できることなら、機械的見送り隊より人間的見送り隊にお世話をお願いしたい。それを叶えるには、今日という日に丹精こめて生ききることだと思って過ごしています。