こころあそびの記

日常に小さな感動を

草抜きという修行

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 遠くに見える山のパッチワークの色合いが日々変化しています。常緑樹の濃い緑と赤い若葉、落葉樹の新芽の若緑色。ところどころ山藤の紫色が配色されて、青葉の季節に向かって模様替えの真っ最中です。
 自然の中では、育つべきは育つという厳しくも美しい掟に従って共存共栄がなされています。
 当たり前ですが、人為的に植えた庭木は成長できないケースがあります。ここじゃない、と拒否サインを出すのです。
 例えば椿は植木屋さんも難儀する木です。住宅街の狭い風通しの悪い庭では、虫が付いて、ちょっとでも触れるとアレルギー症状を起こしてしまいます。
 ところが、山に生えている椿に虫被害など聞きませんから、自然に生えているのではなくて、自分の居場所を自分で選んで生えていることが分かります。生きる場所を決めることは、植物にとっても人と同様にいのちに直結する最大事なのですね。
 さて、去年からお願いしていた庭の剪定作業がようやく済んで、朝日が眩しくなりました。風通しがよくなった庭は、小学生の孫でさえ「気持ちいい」と言ってくれます。たとえ狭い場所であってもスッキリさせておくことが邪を遠ざけることになると、明るくなった空間が教えてくれています。
 そのあと、昨日は、娘家族ががんばって草を刈ってくれたおかげで、今朝は草の匂いが庭中に漂っています。
 子供の頃、母に命じられて草抜きをしていました。言われて渋々していたので、良い匂いと感じる余裕さえありませんでした。
 つらいお手伝いでしたが、道元禅師の「日常生活すべてが修行である」という言葉を知ってからは、草抜きは最高の禅だと思うようになりました。草を抜くという孤独な作業が奥深い禅であり、自分の仏性を磨くことになるならと、もくもくと雑草を抜くことが苦ではなくなったのです。今でも、草を抜く度に道元禅師が寄り添ってくださるように感じます。
 一本も残さず抜くようにと厳しく言う母がいなくなった庭は草刈り機で刈られて広々しています。そこには、叱られながら抜いていた頃を懐かしみながら草の匂いを嗅いでいる自分がいます。