こころあそびの記

日常に小さな感動を

憧れの永遠

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 私は「永遠」という言葉が好きです。理由もなく惹かれます。
 本を読まない少女だった頃、アンデルセン童話「雪の女王」のラストシーンの氷の国の絵を見ては、永遠を表現しているはずの氷が永遠ではないことに心が引っかかったことを覚えています。
 そんなことを思うくらい、孤独感の強い子供だったのでしょう。
 それからもずっと永遠を感じさせるものはなんでも好きです。
 近所の水月公園の入り口にある「遠源長流」と刻んである門。遥か彼方から流れ下ってくるイメージを想像するだけで、ワクワクできます。
 ですから、漢方という入り口から迷い込んだ中哲学は、「永遠」だらけで、私にとってはパラダイスです。
 ”天地“、”悠久“、”大自然“、“混沌”とか、永遠だらけです。
 なのに、楽しい夢の国の住人になりきれないのは、勉強の素地がないからにほかなりません。もっと、本を読んでおけばよかったと無駄な後悔をしています。
 これからは、少しは本を読んで、住民票を手に入れたいと、夢だけ膨らませています。
 今日は、何ヶ月かぶりに、大形徹先生の講義を拝聴してまいりました。
 お元気なお声に安心いたしました。
 一日中、ひっつき虫して感じたことは。
 講義の時とそれ以外のお話しの調子が全く変わらないことです。相手がだれであろうと、常に同じです。高くなく低くなく、常に自然体です。
 一事が万事。お偉いさんと名刺交換される姿も、中華料理屋さんのお姉さんとの雑談も、限りなく穏やかに話されます。
 先生の周りに集まってくる方々は、その変わらぬ姿に安心感を持たれるのではないでしょうか。先生の落ち着きが波及して、その場が和やかな空気になるのです。
 これは、失礼ながら、生来のご気質の賜物と存じます。
 この世では、自ら、こうなりたい!と念じて出来ることよりも、知らぬ間に導かれて、その道に到達したと聞くことの方が多いかもしれません。
 先生のお話を伺いながら、先生も後者でいらしたのだと確信いたしました。先生を導くたくさんのお方が働かれていることを感じます。老荘の説く「道」を、広く普及させるために選ばれた方なのだと思いました。
 その貴重なお話を末席で拝聴できる機会を与えられたのだから、ちゃらんぽらんは止めて勉強しようと肝に銘じて帰宅して、本を開いた途端に睡魔に襲われる自分でした。明日こそ。