この美しさ。
ど素人でもファインダーの先に光り輝く春を覗き見ることができる季節です。
水月公園では水面に桜と楊が映り込み、またとない一枚が撮れました。
観梅が終わって、静かになった公園です。
梅の木の根元の土にはタンポポが咲いていました。
少し離れた所に、小さな小さな菫が咲いています。タンポポと一緒に撮れたら、その小ささがわかってもらえると、探したのですが、独立した群ればかりでした。
たぶん、5ミリにも満たない小ささだったと思います。
そこで、はたと、あの話がよぎりました。
今、読んでいる『香君』です。
上橋菜穂子さんが、植物の逞しさを知って、知れば知るほど面白くなって書かれたご本です。
植物は動けない分、動物よりも感覚を研ぎ澄まして生きています。
私も何冊か植物の知恵に関する本を読んだり、田中治先生のお話を聞いたりして不思議さに驚いている一人です。
タンポポと菫。
混じっては咲かないのです。
それは、テリトリーをカバーする何かを出しているからと想像します。
『香君』では、植物の発信する何かを感じることのできる娘が登場します。
Aという種が逞しすぎると、周りにその他の種は育つことができなくなります。だから、A種の生命力をコントロールしなくてはなりません。
闇雲に、実験でコントロール方法を探るよりも、植物の声を聞くことができる人間なりが仲介役になる方がよいに決まっています。
この先、人類を救うのは科学か人間の五感か?
今、生きている人間の中に気づいている人がいます。
科学で害虫被害を食い止め、収穫量を増やす肥料を生産できるようになったことは、評価されてしかるべきです。
しかし、それだけでよいのだろうか。
樹木や花々が発信する何かを感じる力を失ったとき、人間という動物が終焉に近づいてしまうだろうことを感じる人が、少数でも残っていたら人間は救われるかもしれない話が、『香君』に書かれています。
桜花が入学式を待ってくれました。
明日はやさしい花散らしの風が吹くことでしょう。
こんなささやかな人間の願いが、植物に通じていると思う密かな喜びも、人類を救う手立てになる日がくるかもしれません。
ヨハネ福音書
「風は思いのままに吹く あなたはその音をきくが
それがどこから来てどこへ行くかは知らない」
麦の穂のひかりを捌きゆく風の
速き歩みを見てゐたりけり 横山未来子