お地蔵さんといえば、「子安地蔵」や「延命地蔵」など。特に子供の守り神という印象です。
ところが、このお地蔵さんの名前、ちょっと見かけない『應化地蔵尊』。
「應化」とは、仏や菩薩が世の人を救うために相手の性質、力量に応じて姿を変えて現れることだそうです。
先日、横を通りかかったとき、ひとりの小学生が手を合わして何やら声に出してお祈りをしているところでした。
このお地蔵さんは、路傍というより、垣根で囲われた中に祀られていますから、よほどの気持ちがないと入らないはずです。
何をお祈りしていたのかよりも、その心がけと姿に教えられるひとときでした。
さて、今日は杏☆漢方セミナーの集合日です。
場所が変わること。
ブログ閲覧回数がのべ一万回を超えたこと。
などから、心機一転。生まれ変わりのアイデアを皆様にお伺いしたいと思っています。
看板も掛け替えなくてはなりません。
十年前には、みなさんに興味があったことも、今では常識になった部分があります。
不易流行。
変わらないものは、いのちではないでしょうか。。
どんなに情報を仕入れても、知識だけでは入り込めない領域が「いのち」の在り方です。
「毎月、診察していたのに、なんで先生は言ってくれなかったんだろう」という会話は、よく聞くところです。
神様でもない限り、日々刻々と変わる他人の身体の中まで見えることはないでしょう。
その時にどう動くか。「家康どうする」ではありませんが、心を決する訓練を積んでおかなければなりません。
「いのち」を他人に丸投げしておくのも一つの選択ですが、それだけでは自分の足で生きたとは言い難いところがあります。
では、どうするか?
心を鍛える方法を探りたいのです。
それは、昔から人がしてきたことにヒントがあります。
労働の傍ら、何に喜びを求めたかといえば、それは移りゆく四季という自然です。
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪さえて涼しかりけり
日本人の信仰を支えるものは、山川草木、自然であることがわかります。
そんなことと「いのち」に関連があるはずないと一笑にふされるかもしれません。でも、いわゆる、情報や知識の行き着く先には必ず自然の恩恵が見え隠れしています。
石ばしる垂水の上のさわらびの
萌え出づる春になりにけるかも
志貴皇子の歌
この歌の情景は万人に想像できます。しかも自分の中に、いのちの息吹が湧き出す感覚があります。だからこそ愛される歌なのです。
さように、「いのち」は自分ひとりのものではなくて、周りのすべてのものとの共生で成り立っていると、この年になって自覚するようになりました。
今日は、掛け替える看板の文言を出席者と共に考えて、再出発の記念日にしたいと考えています。
よろしくお願いします。