ちょうど通学、出勤の時間帯にひどい降りになりました。
激しくなる雨音が、孫たちを車で送りたい気持ちにさせます。
小学生の頃の記憶が蘇ります。長靴の中も、水浸し。否応なく、濡れたまま過ごさざるを得なかったあの頃。
それでも、風邪をひかなかったのは、若さでした。
こんな日は、家の中に引きこもって過ごすしかありません。新聞をスミからスミまで読んで、自分の新聞遍歴でも書いてみようと思った次第です。
小学生の頃、父はサラリーマンでしたから、朝日新聞や日経新聞を取っていました。いわゆるホワイトカラーの人が読む新聞でした。
でも、幸か不幸か、たくさん並んだ文字を読む力がなかったので、この両紙の考え方を知らずじまいで大人になりました。
それから、どうしたわけか、産経新聞社勤めの人と結婚したため、二十代から今に至るまで、産経の読者として生きてきました。
ご存知の方もおられると存じますが、朝日、毎日、日経は左。産経は右といわれます。
テレビはニューステーションを見て、新聞は朝日を読み続けたら、「左」思想になると聞いたことがあります。
だったら、「天声人語」を写し続けた学生はどうなるの?そして、それが文部省や学校現場の思惑としたら。世の中とは、本人の預かり知らないところに連れて行かれる恐ろしさが潜んでいることを、どれだけの人が知っているのでしょう。
すんでのところで左巻きになるところを、右向きに方向転換できた私はラッキーだったのかもしれません。
右やら、左やら、なんのこと?とお思いの方がおられたら、申し訳ないので、簡単に説明すれば、右は、保守、左は革新という括りです。
保守とは、これまでの伝統やあり方を尊重すること(『旺文社国語辞典』)。
私がいつも「ふつうに育つ」ことをよしとしている根本思想です。
今朝の朝刊の『正論』に、先崎彰容氏が「守るべき保守とは何なのか」という一文を執筆されていました。
彼の、「自分という存在の中に、自分以外の存在、歴史という時間が流れている。保守は、過去を慈しみその維持を使命とするもの」という一文に、深い共感を抱きました。
近頃は、進化しているのか、退化に向かおうとしているのか、見分けがつかない状況です。
こんな時、父母はどうしてたかな。おじいちゃんやおばあちゃんは何て言ってたかな。
身近に生きてた人を思い出すことが、今を生きる助けになるように思うのです。
「彼らを懐かしむのではなく、その時代の人々の思いを受け止めてみる」。そんな風に、石原慎太郎さんは言っておられたようです。
土方(どかた)新聞といわれた産経だけが右とは、心もとない時代になったものです。保守が風前の灯になっています。