7月は、さだまさしさんが「話の肖像画」に登場されていますから、朝が楽しみです。
「バースデー」や「空になる」という歌が好きな私は、デビュー当時以上に今の作品に魅力を感じています。
今を生きる人の心の中をご存知であるかのような作詞力。常々、その枯渇しない詩心の源泉を探りたいと思って見てきました。
今朝は昨年リリースされたアルバム『孤悲』から始まりました。
「孤悲」という言葉に思い入れがあると仰います。
万葉集にも出てくるこの言葉は、コロナ禍にあった人々の心の中にも、現在、ウクライナの戦禍にある人々にも、実感のあるものではないかと、彼は考えているようです。
アルバムの中に「キーウから遠く離れて」という作品が収められています。
「わたしは君を撃たないけれど
世界に命の重さを歌おう
ポケット一杯に花の種を詰めて
大きく両手をひろげて」
詩の一部
70年安保の学生闘争。高校生の彼も一度は学生デモに参加してみたことがあったそうです。
私たちの世代は、戦争を知らないだけではなく、いつの間にか政治に無関心に仕立て上げられてしまったことに、さださんは静かな怒りを感じておられます。
名画『ひまわり』が撮影されたウクライナに、一面のひまわり畑がもどってきますように。
また、「孤悲」は、新海誠監督の『言の葉の庭』のキャッチコピーに使われたことがありました。
「愛よりも昔“孤悲”のものがたり」と。
この映画は見たことがありますが、そんな深い意味を考えることなく、雨のシーンの多さだけが印象に残っています。こういう観客が混じっていると、作り手も苦労の甲斐がありません。申し訳ないことです。
さださんがおっしゃっていた万葉集の歌が、この映画に登場します。
雷神の少し響みてさし曇り
雨も降らぬか君を留めらむ
巻11-2513
雷神の光響みて降らずとも
我は留らむ妹し留めては
巻11-2514
どちらも 柿本人麻呂作です。
歌であれ、映画であれ、言葉を大切にされる源流がここにあると感心したことです。
ついでながら、「愛」という字を白川静博士の「字通」でひいてみると。
後ろを振り返りながらゆっくり歩く。という形からできています。
手前勝手な解釈ですが、愛するということは、後ろからついてくるものに心を寄せることだと思います。
それは、「愛」より昔は、「孤悲」だった、という新海監督の思いに通じます。
そこには、底抜けの明るさよりも、対象への深い思い入れがあるようです。だから、「愛」を“かなし”と読むのだと、やっと気づいたばかりです。