今朝の『らんまん』は、研究者の葛藤が描かれていました。
研究の道に進むことは、ノーベル賞受賞者の研究過程を見るまでもなく、たいへんなことです。
ドラマでは、その道の入り口は一つではないことを、気持ちの揺れる大久保さんに向かって万太郎が説明していました。
「徳永助教授は植物の詠み込まれた和歌が好き。田辺教授はシダが好き。大久保さんは植物が懸命に生きる姿に動かされたんでしょ。
どうしてここに集まったなんてどうでもええんです。植物と生きる。それだけでいいんです」。
万太郎のように、一途に植物だけを目指す人は稀です。
殆どの人は、何かに導かれるように迷い込んで、気づいたら、その道にどっぷり浸かっているという感じではないでしょうか。
大久保さんは、万太郎に出会ったために、これだ!と進路を明確にできたのです。
それも、幸せの一つです。
こんなとき、誰かの導きを感じませんか。
大久保さんを導く誰かが、万太郎のところに連れて行ってくれたと考えます。
人生は出会いといいますが、そうなるように仕組んでいるサムシンググレートが確かに存在すると思っています。
それは、大久保さんがそうであったように、本人が心から真剣に生きてこそ救援されると確信するのは、長く生きてきたからかもしれません。
それから、名を取るか、実を取るかも、研究者としては迷うところでしょう。そんなシーンもありました。
万太郎のように、新種を発見して名前をつけて発表できたらそれでよいと、自分の目指すところが明確な人ばかりではありません。
中には、自分の教室の実績として残すことを目標とし、それを自分の生きがいと考える人もいるのです。
私たちは、ついつい、大学に残って研究する学者のほうが、実社会に出て荒海に漕ぎ出すよりも気楽かなと思いがちです。
しかし、現実は、研究者の道こそ茨道と、今日の『らんまん』が教えてくれました。
私はどうしてもしたいというものもなく、流れるままにぼーっと生きてきてきましたのに、現在、この年になって、学者さんの様子を横で拝見する機会をいただいています。
先日の講義で先生が漏らされた言葉から、研究の道すじとは人間が先に決められるものではないことが窺えました。
中国の古典文献の中には、『黄帝内経』、『神農本草経』、『本草網目』、『傷寒論』など、医学薬学関係のものがたくさんあります。
中国古典の学者さんには魅力がないようで、これらに手をつける方がおられなかったようです。
そこで、その当時、若手の学者の卵であった先生にお鉢が回ってきたと云います。
先生は仰います。
「医学のことを知らなかったからできた」と。
その結果、この教室は、医学関係の研究者である医師、薬剤師、鍼灸師、整体関係の人が集まるようになり、私も末席に座らせていただくことになったわけです。
牧野博士みたいに、頭の天辺から足の先まで、やりたいことずくめで生まれてくる人もあるでしょう。
そういう人は、生まれる前に神様と約束した人。
そうでなくて、生まれてきてから誰かに導かれていることを実感する人生も素敵だなと感じています。
でもね、いずれにしても、真面目に精一杯に生きていなければ、応援団が付いてくれないことは確かです。
だから、今日も明日もがんばろうって思えるんですよね。