こころあそびの記

日常に小さな感動を

台風近し

 

 ながらく沖縄に居座っていた台風6号が動き出しました。

 大気をかき混ぜるための工夫が台風という形になったのでしょうか。自然現象は理にかなうことばかりです。

 この曇天が再び青空になる日を、被害の少ないことを祈りながら待ちたいと思います。

 

 

 今朝の『らんまん』では、心痛めた方が多かったのではないでしょうか。

 長女の園子ちゃんを麻疹で亡くした寿恵子は立ち上がれません。

 それを見た私は、虚弱な次男を病室で抱きながら涙した日々を思い出していました。体温四十度を超えた胸は鉄板のように熱くて、その命を諦めそうになったのは一度や二度ではありませんでした。

 そんな子どもも、今では立派なお父さん。たくさんのおかげを頂戴して「病抜け」できました。だから、あの子が幸せそうにしていると、どこか別格のうれしさがあります。

 

 女親というものは、どうしてもっと健康に産んでやれなかったんだろうと自分を責めるものです。ですから、寿恵子さんの、「私が月足らずで産んだから」という台詞がつき刺さったことでした。

 

 そんな妻の様子を見て、「僕が植物採集に行ったせいだ」という万太郎。

 「いつか園ちゃんに会いに行く日に、園ちゃんがよろこんでくれるような図鑑をいっしょに作ろう」と、二人が寄り添い励ましあう姿を陰から見ていた寿恵子さんのお母さん。

 私は、彼女を見てもらい泣きしてしまいました。

 彼女はお妾さんでした。

 妻という身分になれなかった人にとって、夫婦という絆の確かさは憧れです。その憧れの妻という立場になった自分の娘が、夫なる人に大切にしてもらっている。

 自分の果たせなかった夫婦という形。それを叶えた娘に心から安堵したに違いありません。

 

 

 ひと昔の話ではありますが、男の人がもっと自由だった時代には、お妾さんを持つことは男の甲斐性でした。その際、本宅の妻には権威を持たせつつ、別宅でお妾さんの生活の面倒をみたのです。

 妻は重くて息が詰まる存在だから、息抜きできる場所に足が向くという我が儘が通る、良き時代でした。

 

 今、中国ドラマ『大宋宮詞』を観ています。

 平民女性が宋の皇帝の皇后に上り詰める話です。まだ、途中ですが、皇帝の最愛の女性であっても、平民は後宮には入れてもらえません。

 皇后という地位に固執する女の意地と、愛されることを喜びとする愛人の戦いはまだまだ先が長いです。だって、まだ23話目を見終えたばかり。61話は長いわ~退屈しのぎによろしいようで。

 

 

 大富豪でもない限り、令和の時代はさすがに、本宅と別宅という二重生活ができる余裕ある人は少ないわけで、となると、夫婦関係に一点集中してしまうようです。

 今朝の新聞の人生相談に、「夫が無口です。どうしたらよいでしょう」とありました。

 応えたのは、我らが同級生、柴門ふみさんです。

 「共感力のとろいご主人のようですから、多くは期待しないで。仲良さそうに見えるご夫婦も内心はどう思ってるのかわかりませんよ」ですって。

 たとえ心の内が見えなくても、嘆くことはありません。愛の形は人それぞれだという達観を持つことです。

 私は思いました。相談者の奥様は妻という身分をゲットしておいて良かったと。

 第二夫人の条件は愛され上手ですから。