こころあそびの記

日常に小さな感動を

生かされる意味

 

 今日から二十四節気処暑」の候に入りますから、この暑さもおさまってくるはずです。

 とはいえ、今日も北日本や北海道では猛暑が続き、関東や四国で天候は安定せず大雨の予報も出ています。

 暦通り、統計通りにはいかないのは常のこと。

 それでも、朝の空に浮かぶ絹雲が、上空では秋の空気に入れ替わったことを告げていますから、もうしばらくの辛抱です。

 

 さて、処暑の期間には、

 初候「綿柎開」(綿を包む萼が開き始める)、

 次候「天地始粛」(てんち、はじめてしじむ)、

 末候「禾乃登」(か、すなわちみのる)と、 

各候の文字から想像するだけでも、季節が巡るようすが見えてきます。

 活動的であった夏が幕を下ろし、天地がその扉を閉じる。

 静かな秋が始まります。

 

 いわれてみれば、朝から騒がしかった蝉しぐれがぱたっと止んで、虫の集きが始まっています。

 そんな身近な秋が、あんなに酷かった暑さも徐々に忘れさせてくれることでしょう。

 

 

 閑話休題

 今年の芥川賞を受賞された市川沙央さんをご存知でしょうか。 

 受賞作『ハンチバック』からお分かりのように、彼女は筋疾患先天性ミオパチーに罹患して背骨が彎曲しています。日常生活は人口呼吸器と電動いすを使用しておられます。

 受賞会見では、マスコミの質問に答えるために電気式人工咽頭を使用されていましたから、自力で声は出せないことがわかりました。

 そんな状態でおられながら、自分でなければ訴えられないことがあるという思いに、強い意志を感じます。

 その彼女が、今朝の朝刊に寄稿されていたので、少し書き出してみたいと思います。

 

 会見後、自分の言葉遣いが拙かったせいで、SNSが炎上してしまった。

 私は「読書バリアフリー」を訴えただけであったのに、曲解されてしまったようだ。

 揶揄、冷笑、反感、痛罵などの意見を送ってきたのは、いわゆる保守系の人々であった。

 その理由は、私の姿を見て、人権を振りかざす者と勘違いされたからだろう。

 社会的な主張(読書バリアフリー)を申し立てる障害者というだけで、即座に自分たちの敵だとする感性は短絡にもほどがある。

 差し迫る国難を見据えなければならない時代に右か左か、敵か味方かを判断する安易な分断現象を放置してはならない。

 

 最後に、国家の脆弱性が、このようなところに見えたとおっしゃって、保守派の包摂的寛大さと対話能力を発揮してほしい、と締めくくられていました。

 

 

 彼女の訴えである「読書バリアフリー」とは、点字本、対面朗読、大字本、カラー本、漢字のふりがな、ページ捲りなど、を完備して誰もが本を読める環境を整えることです。

 それを、おまえが訴えるのは弱者の仮面を被った人権主義だろうと右の人たちに捉えられたわけです。

 実際に、人権を振りかざすのは、左の人々です。人権の名の下に、税金から多額の予算を踏み倒す集団が、イメージを悪くしています。

 

 市川さんがご覧になっているように、今、国家存亡の危機です。

 リーダーたる人も見当たらず、迷走している現状を嘆いてばかりはおれません。

 そんな時に、国内で右や左やと揉めている場合じゃないだろうとおっしゃっている慧眼に感服しました。

 

 

 ご自分の日常生活だけでも大変なことですのに、社会参加もしようとされています。

 それは、生きている意味を考え尽くした末に到達したものと拝察します。

 生かされているのはなぜか。その問答の繰り返しがあって、初めて生きるという能動的な行動が芽生えたことを、彼女にあらためて教えてもらいました。