こころあそびの記

日常に小さな感動を

敬老の日

 

 いつもの丘に上って、大きく広がる景色を見渡すだけで心は解放されてゆきます。

 そして、黄金色の稲穂を揺らして吹き渡ってくる風を、今日、とくに心地よいものに感じられたのは、この風に共感してくださる方々と行き交ったからでしょう。

 「気持ちのいい風ですね」

 「ほんとですね」と。

 

 

 

 

 今夏の炎暑に耐えられず、葉っぱが巻いて変色するのが早かったハナミズキですが、この時期、ちゃんと実をつけていました。良かったと胸をなで下ろすと同時に、環境に負けずになんとしても生き延びようとする気概を頼もしく思ったことです。

 

 そういえば、昨日の大相撲で大鵬関の言葉が紹介されていたのを思い出しました。

 「勝とうと思うな。負けたくないと思え。」

 勝ちたいと逸るのではなく、あんなに頑張ったんだ。負けるもんか。そう思う方が、変な力みを招かないで、勝ちに繋がる。

 一瞬で勝敗が決する取り組みにかける力士が、心の鍛錬までされていることは驚きです。が、解説の元白鵬関が当然のごとく受け流されたことはさすがでした。

 

 

 

 歩き疲れてベンチに腰掛けていたら、独りの男性がカチッカチッと鳴る杖をついて歩いて来られました。

 聞けば74歳だとか。

 楽しくお話される方でしたので、ついつい長話をしてしまいました。

 「このあたりは、昔は蛇がいっぱいいましたんやで。マムシも多かったから、業者が取りに来てました」

 「ええっ、そんなんですか。そういえば、先日、田んぼで見かけたのが蛇ではなくて、マムシでびっくりしました」

 「あきまへんで。今頃のマムシが一番怖いんでっせ。冬眠前やから。」

 「そうなんだ。お風呂にムカデがでましたよね」

 「うちなんか、お風呂場にマムシが泳いでましたで」

 「キャア」

 「それに昔はここらあたりでも松茸がどっさり採れました」

 「羨ましいこと」

 「でもな、いっぱいあったらあきませんな」。

 最後の言葉には含蓄がこもっています。いっぱいあることが当たり前になると大事にしない。それが祟っての現状なのかもしれません。

 

 今日は折しも「敬老の日」です。お母様は、現在100歳でお元気に同居しておられるとか。

 「昔は子が親をみたもんでっせ」

 施設なんて選択がない時代は当たり前だったことが、今はできなくなってしまいました。切ないことです。

 

 

 「私はアホでした。学年で下から二番目でしてん。漢字も書けませんで」

 と笑わしてくれる人。

 そんなんどうでもええことです。

 ここからこの景色が美しいなぁと思えることの方が、ずっと素敵です。

 そう言って差し上げた私の本心を気に入って下さったのか、帰り際には、 

 「また、会えたら声かけて下さい。私は覚えてるかどうかわかりまへんので」

 

 高齢者は楽しくあるべきと教えてもらいました。

 小難しい自慢話は要りません。

 あっけらかんと、普通に生きてきた人が好ましいと心から思いました。

 彼みたいな人のことを、誰かに護られている人と言うのかもしれません。