純白の朝。
見つけた雑草は「コミカンソウ」。
抜かれる運命にある草ながら、なにやら茎の裏側に小さな実が規則正しくくっついています。
情報によると、日差しが強いときには、ネムノキに似た葉っぱを閉じて水分の蒸発を抑えて生き延びてきたとか。
さらに、抜かれるときには茎に付いた種をまき散らすといいますから、草抜きという行為は、彼らの生き残りの手伝いをすることになります。
こんな小さな植物が、動き回らない選択をした代償の厳しさを見せつけられたことです。
みんな生きることに必死です。
のうのうと生きては、彼らの足元にもおよばないことを、教えられました。
けさの朝刊に『ディベート』が取り上げられていました。
一つの題目について、賛成側と反対側に別れて話し合う論戦です。
学生時代も話題にはなりましたが、授業で行うこともなく過ぎたことは、私みたいに話し下手にとってはラッキーでした。
戦後に外国から流入した文化かと思いこんでいましたら、この「ディベート」を”弁論“とか”討論“と翻訳したのは、福沢諭吉だということです。
そういえば「弁論大会」という言葉は古くからあったように思います。
他者に話すことで、自分の中で整理がついて理解が深まることは、ままあります。
情報処理能力や、論理の立て方が身につくことも理解できるところです。
それでも、これは、日本人には最も苦手とするところではないかと思ってしまうのです。
それは、私たちは、まず人前で大声を出すことを恥としてきた民族です。
奥ゆかしさや相手への気遣いこそを大事にする人たちが、相手に向かって好戦的に話すなんて無理。
そう思ってきました。それが端的に表れているのが国会審議のように見えます。
あぁ、日本人って何をゴチャゴチャ言ってるんだろう。進展しないお話し合いは見てられないけど、これこそ日本人なのかもしれないと苦笑すること度々です。
そう。『ディベート』には総合能力が必要なのです。
昨晩、AbemaTVで、繰り広げられた議論の応酬をご覧になりましたでしょうか。
有本香さんの切り返しの鋭いこと。
彼女は、長年蓄積された知識があっての発言でした。
その相棒の百田さんが、ぐっと抑えて日本人らしく振る舞われたことに安心感を覚えました。
さすが、『日本保守党』党首(仮)。
個人的な希望ですが、やはり日本人らしさは、この先も残っていってほしいと願っています。
おじさんおばさん、おばあちゃんもそう言うてたなぁ。という部分です。
相手を打ち負かそうという戦闘を好まない民族は、相手を尊重しすぎて、今、迷子になっているようにみえます。
迷路から脱出する方法に戦いを使ってほしくありません。だとすると、それには相当な知恵が要ります。
難しいことは百も承知ですが、賢明な人たちの出現で、この窮状が救われるかもしれないと期待してしまう今日この頃です。