こころあそびの記

日常に小さな感動を

おばあちゃん

 

 お弁当を作り終わって見上げた空には、金星も木星も消えて残月だけが浮かんでいました。

 今から、また一周して後の月に見える月末まで、健やかな日々でありますように。

 

 

 こないだの朝のこと。

 足下にピカピカ光るものを見つけました。

 広くもない庭ですから、数種類の木しか植わっていませんのに知らなかったことがまだあったのです。

 薄明の中で艶やかに赤く光る実。

 実を包んでいるほうは泰山木から落ちてきたものに似ています。初夏に花が咲き終わると木の周りで見かける残骸です。

 しかし、うまく熟したら、こんな実ができることなど、この年まで知りませんでした。

 自然は無数の驚きを提供して、飽き性の私が日々新鮮に生きられるように導いてくれていることに感謝です。

 

 

 『朝晴れエッセー』。何度も読み返したくなる作品にはなかなか出会えないのですが、今朝は、二度も三度も鼻をツンとさせながら読み直しました。

 私はこういう話が好きです。

 おばあちゃん話です。

 

 母親を亡くした作者は、おばあちゃんに育てられます。連れ合いを早くに亡くしたおばあちゃんは、字も書けないし、言葉より先に手がでる苦労人でした。そんなおばあちゃんのこと大嫌いでした。

 ところが、ろくに話もしなかったおばあちゃんが就職祝いに時計を買ってくれます。

 「これ形見になるかもしれんな。大事にな」と。

 その言葉通りに、おばあちゃんは逝かれたそうです。

 

 

 私のおばあちゃんは、私が小学六年生のとき逝去しました。それから何年も夜になって布団に入ると泣けました。高校生になっても泣いていました。

 

 一休禅師の言葉に、

 「心というものは

   いかにと判じ申すに

   かげ形もなきものなり

   かたちなきゆえに消え失せず

   燃えれば生もなく死もなし」

 と、あります。

 心の伝承はマニュアルや制度で成るものではありません。

 ふとその人を思うときに、そばにいてくれる。

 そんな優しさがさびしい自分を励ましてくれる心強い味方です。

 

 死んだらすべて霧消するんやから何をしてもいいんや。とか、子供いないから自由に好きに生きてもいい。と考える人が増えつつあるようです。

 でも、生きる間にどれほどの人間と関わり合うでしょう。生きていくとは、次に生きる人にバトンを渡すこと。

 今のその一言が、誰かにとって忘れられない言葉になるかもしれません。

 また、好き放題に生きているようでも、その足跡が誰かに影響を及ぼすこともあります。

 正しいか間違っているかなんて、どうでもいいのです。存在したことがすべてです。

 

 

 目の上のたんこぶだった母のことさえ、今は懐かしい。そう思えることが幸せなんだと気がつく自分になりました。

 そのために、この年まで生かされたのかと思うと、残された日々の生き方も考えずにはおれません。