大好きな雨上がりの朝です。
こんな朝は、出かけずにおれようかとムズムズしてきます。
アリーナから見える低い太陽が、日の出が遅くなっていることを感じさせました。
しばらくぶりで、お話上手な男性にお会いしました。
「おはようございます」と朝の挨拶を交わした後、楽しいお話が始まりました。
これこれ、これですよね。作り話じゃない、実録を聞くのが何より好きな私にはたまらない時間です。
「母親が最近亡くなりまして」
「えっ?こないだお会いしたときは、103歳で元気にしてるとおっしゃってたのでは」
「そうですねん。あれからです。寿命がきたんでしょうな。私は涙も出ませんでした」
「息子さんのこと、もう大丈夫と安心されたて、天寿を全うされたんですね」
「母親は僕が高校一年生のとき、連れ合いを亡くしまして。無駄遣いをしない大正生まれの親でした」
「そうでしたか」
そんな話しをしながら、やおらに腕時計を外されました。あれっ、痒くなられたのかしら?ここは、池にかかる橋の上。落っことしたらたいへんなことになると心配したのですが。
彼の今日のお話は、その時計から始まったのです。
「実はこう見えて、学校出てから会社員してましてん。T自動車のセールスで全国一位になりました。そのとき、この時計をもろたんです」
時計を外されたのは、その裏側に刻まれた栄誉賞の文字を見せようとされたからでした。
「すごいですね」と、私が手を添えようとしたのを払うように、腕にもどされたのは、どれほど彼がこの時計を大切にされているかの証でした。
「自動巻きですから、四十年動いてますねん」
察するところ、その頃のお給料としては最高額を手にされていたはずです。
その後、それを元手に、やりたいように人生を生きてこられたそうです。
でも、この人を好ましいお人柄と思うのは、そういう成功体験ではなくて、こんなことを話して下さるからです。
「私、六十歳のとき気がつきましてん。女房は何も文句言わんと面倒見てくれてきたんやなと。それからというもの、一日に十回、”ありがとう“と言うことにしたんです」
「奥様とはお見合いですか?」
「違います。僕等の高校は、かわってましてな、一クラスに六組も結婚しましてん」
いいなぁ。若いうちに伴侶に出会うことは、この世の幸せの一つだと常々考えている私ですから、羨ましくお話を伺いました。
実は、彼は少しおみ足の不具合を抱えておられます。
「それは、梗塞とか?」
「違います。無理し過ぎました。奥さん、年には勝てませんで」
そのリハビリも兼ねて、朝早くから散歩されているのだそうです。
家に帰ってきて、テレビを付けたら「女子マラソン」が映りました。
手足が動くのは、「気」が十分に巡っているからです。
使いながら(走りながら)補充できるだけの体力を支えているのは、「気」の量です。
年とともに、気力がなくなるのは仕方がないこと。
手足が覚束なくなるのは、その証拠です。
朝お会いした彼ではありませんが、無理をしないことは大切な養生法です。
「さぁ、ラストスパート。気力でついて行け!」と、テレビ解説者が声をかけておられました。
それは、ご自身にまだ、「気」があるからです。
年齢は嘘つきません。
その年齢にならないと分からないことがある。何歳になろうと、その年の自分にしかわからないことがある。
それを見つけて楽しむのも、「気」を損なわない養生法です。