真っ白じゃないところに心惹かれるのは、自分らしいなぁと独りごちています。
柔らかな昼下がりの光と混じり合った色は、やさしく微笑んでいるようです。
録画しておいた、BS百名山「六甲山全山縦走」。ようやく見終えました。
六甲山系を西端の須磨浦公園から歩き始めて、東端の宝塚までの56kmの行程を、3日間に分割して収録してありました。
六甲山からの眺望の魅力は、なんといっても海まで見渡せる開放感にあります。
足の不調で歩けない者にとっては憧れでしかありませんが、「六甲山全山縦走大会」なるものが、今年も来月に実行されます。
一日で山中の全行程を歩ききるという過酷なロードレースです。
私の友人がこの大会に参加したのは、もう二十年ほど前になるでしょう。
なぜ、参加してみようと思ったのかは、訊いていません。ただ、他の参加者やボランティアに「がんばれ、がんばれ!」と言ってもらいながらゴールしたと、喜びを話してくれたことは、覚えています。
彼女は、おしゃれな女子でした。流行のお洋服や装飾品を身につけて、私を羨ましがらせたものです。
ところが、このレースに参加して以来、どうしたことか山登りガールに変身してしまったのです。
彼女が人生の後半を山に捧げた理由は、お名前に隠されていたのではないかと、こっそり推測しています。
「聖子」さん。
聖なる山の神様に呼ばれたとしか思えません。
「人にはすべてあらかじめ決められたレールのようなものがある」(『錨を上げよ』p.219)と思うのは、百田さんだけではないと思います。
もう三十年も前に、哲学書が流行したことがありました。
書名も忘れましたが、外国の著者が「運命通りに人生は運ばれていく。細部に違いはあるかもしれないが、大きく外れることはない」と記されていたことに反論できない私でした。
さらには、中国の王充が著した『論衡』には、「天命に支配されないものはない」と書かれています。
私たちは、人生という迷路を歩いているようで、ゴールは決めて生まれついているという説には、そんなのいやだ!同意できない!という人もあるでしょう。
しかし、ゴールに近づいたこの年になると、この考えは結構楽チンでもあります。必ず目的地があるという安心感とでもいうのでしょうか。
そんなこというあんたは運命論者かと云われそうですが、そうでもあり、そうでもなしです。
自分に力が漲る時には荒波に抗したらよいし、自分が流れに逆らう気力がないときには、流れに身をまかせばよいと思っています。
『錨を上げよ』に「本当に人を変えるものは、突如の思いつきではなく」、その人にしっかり根付いたもの。と書いてありました。
つまり、「聖子さん」は、雑踏に紛れるよりも、聖なる山を目指すように生まれついておられたと云えるような気がしてならないのです。