こころあそびの記

日常に小さな感動を

縁ある人

 

 11月に入って、何が楽しみかといって鴨たちの飛来ほど、うきうきさせるものはありません。

 「お母さん、芦原池にあの目の周りが金色の鴨が来てたよ」という娘の報告を聞いたのは数日前。

 「うそ!キンクロハジロやんか。そ

ろそろやね。うれしいなあ」

 千里川に飛来する日を、カモだけに首を長くして待つ今日この頃です。

 

 

 たびたび登場する『いのちの風光』(紀野一義著)です。

 1967年刊行の本ですが、私が繰り返し読んだのは90年代。子育てやらなにやらで人生で最も忙しくしていた頃です。

 一日を終えて、湯船につかりながら愛読したものですから、湯気で膨張して本の体を失ってしまいました。

 それでも、捨てるに忍びなく、本箱に立てていたら両側から押されて、なんとか原形に戻ることがでたのは、偏に、この本のいのちでしょう。

 

 一生懸命だった毎日。自分を見失っているつもりはないのに、迷路から脱出できませんでした。

 そんなとき読んだ紀野一義さんの真面目な言葉が、吸い取り紙が水を吸うように、飢えた心を癒やしてくれたものです。

 

 「念の深きは畜生、念の薄きは人、念のなきは仏」(至道無難禅師)

 

 強く念ずることは、執着です。あっけらかんと生きれるようになって初めて人としての修行が完成に近づくと書いてありました。

 

 大好きな道元さんの言葉も載っています。

 

 「迷いに執着すると仏のいのちを放り出すことになる。執着を離れると、さらっと生きていける。それを本当に生きるという」(正法眼蔵)

 

 風のように、軽く生きる。

 重くなくて、ひと様に負担にならない存在を目指さねばならないと思いました。

 

 

 久しぶりに、こんな本を手に取ったのは、最近、不思議なことがあったからです。

 

 それは、私が大形先生に出会うことになったのと似ています。

 先生とは、紀伊国屋で買った一冊の本からだったことは、何度もお話してきました。

 願いというものは人間の力ではどうすることもできないと思い知ったのは、結婚、子育てを経験してのことでした。

 「力は天然から来る」

 人間の努力はどなた様かが必ずご覧になっていて、その人に最適なタイミングで叶えてくださるものと今は思えるようになりました。その後押しがあるから無事に毎日をつつがなく過ごせるというわけです。

 

 

 先日、つぎのような一通のメールが来ました。

 「ご無沙汰しています。私も漢方について少しずつ勉強してみようと思うようになりました。つきましては、勉強会に参加申し込みしました。この先生は山下さんのおっしゃってた陸先生ですか?」

 うそぉ!こんなことありですか?

 彼女は大形先生のグループの方で、長らく漢文や中国哲学を学んで来られた看護師さんです。

 漢方の勉強会なんて、星の数ほどありますのに、ピンポイントで陸先生に行き着くなんて、びっくりです。

 まさしく、私が大形先生に引き合わされた感じにそっくりなことが、またまた眼前で起こりました。

 

 

 「合縁奇縁」

 過去世の「因」(原因)が、現世の縁を呼び寄せると、仏教では説かれています。

 人と人との不思議な巡り合わせは、過去世からの因縁が絡んでいることに、異論はありません。

 自分でより分けているわけではないのに、気心が合う人、合わない人がいます。

 これも、不思議な縁のあるなしに関係しているのでしょう。

 

 たくさんいる大形先生の教え子の中で、彼女と私を結びつけたものは、母親に悩んだという共通項だったのかもしれません。

 励まし合って生きていけよという声が聞こえます。

 こんな出来事があると余計に、「天然の力」が確かにあることを信じないわけにはいかなくなります。