ポストに墨書きの分厚い封書を見つけました。
長野さんだ!
このかわいらしくも勇ましい封緘は、彼にちがいありません。
もう何年も前に、阪急豊中駅の高架下にあるフリースペースで開催された個展で、初めて彼を知りました。
こんな作品に興味があるのではと、連れて行ってくれたのは仲良しのTさんです。
会場を埋め尽くしていたのは、漢詩を中心にした作品軍でした。
絵も文字も、すべて手彫りの版画でしたから、費やしたであろう時間に素人は感心するのですが、ご当人は至福の時間であったことでしょう。
定年後に始めたと彼はおっしゃっています。そんなことが、はたして可能なのでしょうか。
老年は時間は持て余すほどあることは確かです。その時間をどう使うか。
あれもこれもと手を出して、結局一つもものにできないことが往々にしてあります。
なのに彼が成せたということは、ひょっとしたら一つに時間を集中して没頭すれば可能なことなのかもしれないと、贈ってくださった作品を広げながら思ったりします。
いやいや、どう理屈を並べても、彼は選ばれた人なのだよと水茎の跡が力強く物語っています。
李白の「月下独酌」の詩の読み下し文です。
漢詩には、お酒の登場が多くて、酒の解毒酵素を持たない自分には、ほんとうの気持ちを理解できなくて残念なことです。
しかし、
「相期邈雲漢」
(次は、あのはるかな天の川で会おう)
こんな素敵な想像ができるところに漢詩の魅力があります。
李白が孤独な自分を果てしない宇宙に投げ出したことは、今を生きる私たちにも参考になります。
小さく固まりそうになったときは、天空を仰ぎましょう。
陶淵明が、
「独り多くを慮ること無かれ」とも。
人生の流れに従って、喜ぶこともなく、恐れることもなく、寿命がきたら潔く受け入れるがよい。思い悩むことはやめにしよう。
8世紀に生きた人の考えていたことが、そのまま21世紀の今も人心を震わせます。そのことに思いを致してしまうのです。
最後に、杜甫の「秋興八首の其一」。
「玉露凋傷楓樹林」。
秋の露が楓の木を萎れさせていく。
彼の見た晩秋の景色は、まさに今、私たちの眼前にあります。