近頃は、シャッター式の雨戸が増えて、昔ながらの木製の雨戸を残している家屋が少なくなりました。
ガラガラ!という雨戸の音が郷愁を感じさせます。
我が家も座敷に面した四枚を残すばかりになってしまいました。可笑しいことに、今でも開け閉めするたびに、後ろから母の叱りつける声が聞こえる気がするのです。
戸袋にしまい込むことだけではなくて、引きずり出して敷居のレールにうまく乗せることや、錠穴に仕掛けを上手に入れることなど、ちょっとしたコツがいるのです。
鈍くさい不器用者でしたから、命じられる度に悪戦苦闘したのも、今となっては、懐かしい思い出です。
そんな思い出いっぱいの雨戸が戸袋の中で、ががたがたと音をたてています。
西高東低の気圧配置による北風のおかげです。
いくらなんでも、この数日で晩秋の趣は濃くなるに違いないと思っていたら、案の定、昨日は「木枯らし一号」が東京で報じられ、今日は西日本に初雪の便りがありました。
名残惜しいけれど、秋とはお別れです。
道端で菊を見かけなくなったことも一因ですが、今年は菊を鑑賞するチャンスを逃してしまいました。
露ながらおりてかざさむ菊の花
おいせぬ秋のひさしかるべく
菊の精気をはらんだ夜露を綿に移す「着綿」(きせわた)。
それを身につけて、菊の露の霊力をたのみ、老いることのない永遠を祈った歌です。
なんと、優雅なお遊びでしょう。
植物の力を信じた都人の心には、余裕があった。見習いたいのは、その心の余裕です。
作家の五木寛之さんがこんなこと書いておられます。
「朝顔は朝の光で目覚めて咲くのではなくて、朝の光に当たる前に夜の冷気と闇に包まれる時間があるから咲くのです」。
植物は、人生訓を垂れてくれます。
また、西畠清順さんは、「植物を育てるのに一番大切なのはどんなことですか」と訊かれて、こう応えました。
「愛です。よく、一日に何回水を遣ればいいですかと訊かれますが、ルールはありません。置かれた環境も種類もさまざまなのですから、その植物を愛しておれば、対話ができるはずです」。
そういえば、今朝、「あの子の声が聞こえた」と娘が言ったのは、玄関に置いてある枯れそうで枯れないモンステラからでした。
「水が欲しい」という声を聞き逃さなかったのは、愛あればこそ。薄情者の私にはできないことです。