今年も桜が葉を落としました。下草と作る多色使いのハーモニーが好きです。
春は、花を咲かせて人々に喜びを、夏は緑陰を作って安らぎを提供した一年を閉じようとしています。
清順さんが、大好きな言葉「念ずれば花開く」について、プラントハンターならではの解釈をなさっています。
植物にとって、花開くことはスタートである、と。
何のために花咲かせるのかというと、それは子孫を残すためです。鳥や虫に寄ってきてもらって受粉を助けてもらい本来の目的を果たすのです。
だから、花開くことはスタートなんです、とおっしゃっています。
念じて念じて、ようやくスタートラインに立てる。
落ち葉が見せる”生きざま“から、何を学びましょう。
昨夕のNHKテレビ「ホッと関西」で、小説に出てくる味巡りが放映されていました。
『いちごの粒をつぶしながら』(田辺聖子著)のボンボン。
『新しい天体』(開高健著)の「たこ梅」。
そして、大阪といえば外せない『夫婦善哉』(織田作之助著)のおぜんざい。
織田作之助がうろうろした難波には、「自由軒のカレー」とか「ちどりのおうどん」。「福喜寿司の蒸しずし」なんかもありました。
なんで、彼がこのあたりに出没したかというと、近くに彼のお姉さんの電気店があったからです。
そのついでに、私のおばあちゃんの家にも、遊びに来たと聞いています。母の兄が旧制高津中学の同級生だったからです。
「もし、戦争で家を焼かれてなかったら、さくちゃんがあの家を買うてくれてたかもしれん」
戦前、七人兄弟の末っ子である母が生まれて直ぐに大黒柱の夫を失って、おばあちゃん一人では持ちこたえられなくなっていたのでしょう。
そんな話、なんの足しになるのかと思われるかもしれません。
それでも、たまに母やおばあちゃんのことを思い出すと、力をもらえます。それは、取りも直さず、彼女たちが懸命に生きた実話であるからです。
情報に溢れた時代にあって、目の前ばかり見ていると、自分の立ち位置を見失いそうになります。
そのような苦境から救い出せるのは、嘘か誠か分からないようなつまらない話の持つ温かさです。
しょうむない話を心の底に持つ人は幸せ者です。
なぜなら、それを思い出すとき、自分の土台に中に懸命に生きた人々が埋まっていることを再確認できるからです。
若者を根なし草にしない。
そのために生きる年寄りでありたいと思います。