こころあそびの記

日常に小さな感動を

 

 朝方、庭に舞っていた雪はほんとうに儚げで、そのゆっくり落ちてくる希少な白い恋人に見とれてしまったことでした。

 それにしても、暦通りに寒さの底になりました。そのことに、半分、安堵したりもしています。

 自然が狂い始めたと、やれ暖冬だ、温暖化だと騒がれている昨今ですが、どっこい、何千年、何億年の営みはそんなに簡単に崩れるものではないことは、お正月に示された通りです。 

 『私たちは大自然の一員であり、常にその影響を受けている』

 この言葉に惹かれて東洋医学の門を叩いたわけですが、今まで歩いてきた道で迷子になったことはありません。

 それは、自然が揺るぎない姿で存在し続けているからといえるでしょう。

 

 

 私が、漢方薬の枠組みから外れて、東洋の世界観を知るきっかけになった水野杏紀さんの『東アジアの宇宙観』というご本です。ここには、易、風水、暦、養生、処世といった項目が書き連ねられています。

 これらを後世に残した古代人が、計算式を書く紙さえない中で、ほとんど自然観察だけで体系づけたことは驚きです。

 大原則は、自然をよく見ることに尽きると教えています。

 しかし、どんなに目を皿のようにして観察しても分からないものもあるのです。

 今朝もテレビで、地震予知は可能かという話題がありましたが、現時点では不可能であると結論づけられていました。

 もし、起こってしまったらどうするか。それは、それまでに経験したことで身につけた自分独自の考え方を生かす好機です。その日のために、鍛錬を積んできたといえるかもしれません。

 「明けない夜はない」と、言っても夜の底にいる人には聞こえないことでしょう。でも、そばに付き添ってくれている誰かの気配を感じてほしい。

 自分は生かされたのだと気づくことが、天の助けなのかもしれません。

 寒い日が続きます。ご自愛いただきますよう祈りあげます。

 

 

 このお正月のような出来事は、人に何らかの啓示をもたらすためのものではないかと思えてなりません。 

 起こったことに対する感じ方は一人一人違っても、何かが自分に変化をもたらそうとしていると考え始める人がいても不思議はありません。

 

 近頃、私も、長らく放っておいた易学をひもといてみる気になっています。

 易学は膨大な学問ですから、老い先短い私には、どうせ時間が足りないからと諦めていました。

 しかし、このような天災があったことで、人間と自然の近さを否が応でも感じないわけにはまいらなくなりました。

 易とは、変化や循環を繰り返す天地自然、万物のありようを包含したものです。

 そして、先人が易を作った意図は、神明の働きをひそかに助けて、その告示を伝えるために編み出した方法だったといいます。

 そんな難しいところまで、到達できなくてよいと思っています。自然と人間の関係を、昔の人がどう考えていたのか。その謎解きの一助となるあたりを探れたら充分です。

 目に見えないものを伝えるために、目に見える形を示してくる自然の姿をあといくつ見られるのでしょう。