こころあそびの記

日常に小さな感動を

氷雨

 

 外は氷雨

 テレビニュースで滋賀県守山市の菜種畑と雪を被った比良山が、今だったら一緒に見られると報じていました。

 電車に乗ってどこ行こう?と、いつも思ってる私には格好のネタを頂戴しました。お天気が良くなったら新快速で行ってみたいです。

 

 

 仕事帰りにカーラジオから『こころ晴天』のえみちゃんトークが流れてきました。

 近ごろの若い人は”恋愛は時間の無駄と考えている“というテーマでした。

 青春の過ごし方は大きく変化して、四六時中、恋愛相手のことを思い、如何にして振り向かせるかにかけるのは少数派になったそうです。

 そんなだから、歌謡曲は廃れたのかと、『氷雨』のメロディーを思い出したりしました。

 

 さて、温度はさほど低くないのですが、氷混じりの雨に濡れると体温を奪われます。

 そんな日を怖れているのが、日頃からトイレの回数の多い方ではないでしょうか。

 同僚が「私の友達、一日に十何回もトイレに行きたくなるんだって。お医者さんには、我慢する練習するように云われてるらしい」と、話してきました。

 「その人、ウォシュレット使ってる?」

 「もちろんですよ」

 「そっかぁ。まずはウォシュレットを止めることやね」

 「なんで?清潔を心掛けてるんですよ」

 「いゃー。泌尿器科に通う人に訊いたら、ウォシュレット使ってる人が多かった、というだけだけどね。お下も常在菌が守ってくれてるの。それをみんな流したら、ばい菌が入り放題、無防備な状態だからね。」

 

 同じく、コロナ禍でalcohol消毒と手洗いをきっちりした人ほどハンドクリームを手放せなくなっているような。

 

 自分のからだに本来備わっている防衛機能が近代的な生活で壊されています。

 忘れてはならないのは、自分のからだを信じるということです。

 

 何を信じるか。

 いのちを考える要素に、からだ、心、環境、と更にもう一つ上げるとすると、それは、いのちの捉え方です。

 貝原益軒が『養生訓』を書いたのは、83歳の時です。そして、その一年後に没しています。

 つまり、その年齢くらいまで生きたから、いのちの本質を考えられたといえるのではないでしょうか。

 

 若いときには若い考えでいいと思うんです。恋愛なんて馬鹿げてる。それもいいでしょう。

 今を精一杯生きていたら、老年期にその人なりの感慨が持てるはずです。

 どんな生き方をしようと許されるし、それを審判するのも自分ですから。