こころあそびの記

日常に小さな感動を

まだかな?

 

 朝から大川の「さくらクルーズ」に参加していた娘が、「まだ、もうちょいやったわ」と帰ってきました。

 満開には、あと一週間ほどかかるとするなら、造幣局の通り抜けと重なりそうです。八重桜と一緒に大川沿いの染井吉野が咲く様子は、例年になく見応えのあるものとなることでしょう。

 人心を騒がせる桜花です。

 

 

 桜にこれほど心を寄せる国民性は、昨日今日出来上がったものではありません。

 万葉集には、梅を詠んだ歌が118首、桜を詠んだ歌が44首収まっています。

 それが、古今集には逆転して、梅が18首、桜が74首となりました。

 万葉時代に多かったのは、貴族趣味に偏っていたからであって、国民全体からみると、すでに桜に軍配が上がっていたと推測されるのは中西進先生です。

 さらに、平安時代の国風文化の熟成も手伝ってのことだったことは『光る君へ』の道長の手紙の仮名文字が知らしめています。

 

 桜が、日本人のいかなる琴線に触れたのでしょうか。それは、ちょうど、花火が瞬間に消えるから美しいように、桜の瞬時の美を愛でる感覚を持っていたといえます。まさに、“濃縮された美の発見者”であったのです。

 千年以上に渡って、そういう繊細な感覚を養い、桜を愛でてきたわけですから、きっと“目は肥えている”にちがいありません。

 

 

 「さ」は田の神様である稲の精霊、「くら」は神座(かみくら)を表し、豊凶を占った神木でもありました。

 また、「さくら」の語源は、“麗しく咲く”から”咲く麗“とも書かれてます。

 いずれをとっても、どんだけ好きなん!といいたくなるほどの持ち上げ方です。

 

 

 万葉集巻10-1887に、

 

 春日なる三笠の山に月も出でぬかも

 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく

 

 今朝の薄明の空に浮かんで見えたのは下弦の月でしたから、今年の夜桜は月を背景にできずじまいになりそうです。

 暗闇に真っ白な桜を心象にするのもまたよしです。

 そんなこというけど、いま時は雪洞が灯っているから心配ないよという無粋が、千年、培ってきた美に対する感覚を減じませんように。