千里川沿いの雪柳が最盛期を過ぎようとしています。
もし、遊歩道の桜が満開なら春爛漫を満喫できるでしょうに。それを期待して散策されている方々も拍子抜けです。
紫木蓮の茶変した花びらが木の下に散乱しているのを見るにつけ、早春が足早に去っていったことを感じます。
でもね、過ぎた季節を嘆く暇はありません。
昨夕、散歩してたらあるお宅の塀から、今にも開きそうな大きな蕾が見えたので、見上げていました。
ちょうど、夕刊を取りに出てこられた推察するに九十歳近いと思われるご主人にばったり顔を合わせてしまいました。
「これは、なんの花ですか?」
「あぁ、中国の牡丹です」
「もうそんな季節なんですね」
満開にならない桜にばかり気を取られて、季節がすすんでいることを忘れている自分に気づかされました。
「牡丹」はなぜボタンというか。その謂われの一つに、ブータン原産だからブータンが訛ってボタンになった、という説があるそうです。
数え切れない花びらのボリュームが豊さを象徴しているようで、幸せの国ブータン国が見える気がします。
そのお隣には、こんな黄色い花が咲いていました。トサミズキ。
流行りの木々もいいけれど、こういう風流な趣を愛せる家人はどんな方かしらと思いを馳せるのも、散歩の楽しみです。
彼岸桜でしょうか。
背が低くて淡紅色のかわいらしい花が満開を迎えようとしています。
一羽のカルガモ。
スズラン。
この花から思い出すのは、高野山。
自生していた鈴蘭群。
ぐるっと巡ってきて帰ってきましたが、わが家の桜はまだまだです。
花の精はもう目覚めているくせに、もうしばらくお布団の中にいさせて!ってだだこねているのかな。「春眠不覚暁」という感覚が、花にもあるだなんて。
この雨が”花起こし“となって、な~んだ心配することなかったなぁ、となりますように。
世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし