こころあそびの記

日常に小さな感動を

探すのをやめたとき見つかる幸せ

 

 菖蒲の花が終わって、静かになった水月公園ですが、その木の名前を知ってからというもの、気になっていた木がありました。

 枝垂れエンジュです。

 昨夕、見に行ったら蕾らしきものをいっぱい付けていました。本当のところ、蕾なのか実なのかがわからない素人をほっとさせたのは、白い花が綻びかけている箇所があったことです。

 良かった。間に合った。

 月末には、すべての花が開くことでしょう。忘れないようメモしておかなくては。

 

 

 葛の紫色の花が萎れた横で、ナツフジが一花残っていました。

 

 

 残念なことに、アリーナにある花水木が一本、この冬を越せずに枯れてしまいました。その枯れ木にノキシノブが元気に着生しています。

 この子は、着生場所から、水も栄養ももらわずに生きられるそうです。

 独立独歩の植物です。

 

 

 過日の『街角ピアノ』に登場された御婦人の言葉に感じたことのつづきです。

 「幸せは探すものではなく、感じるものとわかった」。

 その言葉から、すぐに青い鳥を思いだしたのは、私だけではなかったと想います。

 ご主人を亡くされたあと、長い間、幸せの意味を探して放浪され、たどり着いた生きる意味とは、自分の外に転がっているのではなく、自分の内に隠されていることに気づかれたのです。

 それを発見することが、私たちに課せられた生きる意味だというところまで手を引いて導いて下さったのは、ご主人だったのでしょうか。

 

 

 幸せの青い鳥は、探しても見つからないものです。

 おなじように、「健康」も探すものではないと思いませんか。

 日々、医療が進化することは、もちろんありがたいことなのですが、そのことに人間の精神が追いつけていないのではと見えて仕方ありません。

 病気探しはやめにしませんか?

 病気の萌芽がどこかに潜んでいるはずと、先進医療に身体を晒せば、見つかることもあるでしょう。

 しかし、身体は毎日刻一刻、姿を変えています。今、見つかったものは、たまたまの偶然かもしれないのです。

 その後に繰り広げられる、手術だ、検査だという時間が、どれほどの負担になるでしょう。

 健康は誰かに太鼓判を押して貰うものではないと言い放てるのは、変人だけかもしれません。

 でも、内なるものとつながっておれば、ピアノの彼女のいう“感じる”が囁いてくれると思うことは甘いでしょうか。

 第六感とか、勘とか、そんなものに鈍い私が言えることではありませんが、本当にまだこの世の仕事が終わってなければ、考えもしないルートから、病気を治せ!の指示が入るはずです。

 それは、不思議なことです。

 そんな不思議を信じて、今日一日を精一杯生きることにエネルギーを使う方が、内なる方々は喜んでくれるような気がするのですが。