昨夕、「お母さん、あしたの卵がないよ」と娘が言うので、よっしゃ、それならと半分寝かかっていた体を起こして、牧落神社の”夏越の祓“に行ってみました。
ほかの神社が現行歴で6月末に催行されるのに対して、牧落神社では毎年、旧暦で茅の輪をくぐらせてくださる貴重な神社です。
行くと、ゆかたを着せてもらった幼子や若いグループなどでにぎわう境内は、温かな空気に満ちていたことがうれしいことでした。
それは、なにより地域の人々が嬉々として参集できる場を作ろうとされる宮司さんのお人柄に負うところが大きいことはもちろんですが、氏子さんや世話役さんが総出でそれを支えておられるからできることです。
子どもたちが風船刀でチャンバラしたり、綿菓子食べながらだべる10代の子たちの姿に懐かしさを感じました。
最近は、どうしてもグローバルがテーマになることが多いのですが、実際は地域興しの大切さに人々が気づき始めていることを感じます。
地域に愛される。それを校是としている学校が現れ始めています。私が子供の頃は当たり前だったことが、半世紀経って、蘇りつつあることに、この国の底力はまだまだ捨てたものではないなぁと安堵しています。
ところで、、私は小6の時、新聞部であったからか、「NHKと民放ニュースは違う」と気づいて発表したことがあります。
それから何十年も生きて、子どもの頃の直感は当たっていたと思うと同時に、今、マスメディア全体が歪んでいることを実感するようになってしまいました。
ジョン・レノンが国境も宗教もない天国のような世界観を歌った『イマジン』。そんな地球は確かに理想です。
でも、それはすべての地球人の民度が同じレベルになって初めて実現できることだと最近は思っています。
たとえば、子育てするとき、あるいは何かを習得するときに、「教えられたように」しかできないと情けない思いをすることはないですか。
先生や親の言うようにしかできない。
リーダーの意を汲める範囲でしか育たない。
先導者の影響はいかに大きいことでしょう。
そう思うと、今の世の中の民度の低さにも納得できてしまうのです
なんで、こんなことを朝からくだくだと考えたかというと、今朝のニュースで、先の参議院議員選挙においての大阪人の選ぶ投票先が話題になっていたからです。
「今まで生きてきて、別に困らなかったから」という意見を若い人から聞いたとき、もうそんな時代は過ぎ去ったのに、と心の中で落胆したことです。あの党首が好みだからというような、ふわっとした民意が大阪に充満しかけていることに、危機感を持ちます。
江戸時代、大阪には、緒方洪庵の適塾や、今も大阪大学内にある懐徳堂などに代表されるように、町人文化が栄えた場所でした。なのに、この体たらくぶりはどうしたことでしょう。
大阪の底力を取り戻すためには、リーダーを選ぶ目を養わなければならないことを痛切に感じます。それには、一人ひとりの努力が必要です。
民度の向上なくして、大阪の立て直しは叶わない。偉そうなこと言ってごめんなさい。