自然の移り変わりを追って過ごすことは、日々の暮らしがある以上、たいへんなことです。
平安の昔であっても、それは同じことのように思うのですが、清少納言は枕草子37段に「木の花」を書いています。
紅梅、桜、藤、橘、梨、桐、楝。
みなさまはいくつご覧になりましたか。
私は今年は藤を見過ごしてしまいました。葉だけになった藤棚を見るたびに嘆息をもらして通り過ぎています。
うかうかしてるうちに、また見落としそうな菖蒲園。花に追い越されまいと、今日は水月公園に行ってきました。
昼下がりというのに園内は散策する人が多く見受けられました。
菖蒲といえば、細川さんの肥後細川庭園の肥後系を思い出すのですが、こちらは江戸系が多いようで、肥後系は「紅唇」だけしか見つけられませんでした。まだ、しばらくは見頃ですから、次回は目を凝らして肥後系を探してみたいと思った次第です。
先の枕草子。私が一番心にかけている栴檀(おうち)の花が上げられていることを嬉しく思いました。
園芸品種などない平安の昔には、木に咲く花がどれほど慰みになったことかと想像できます。清少納言も見た楝。ますます好きになりそうです。
妹が見し楝の花は散りぬべし
わが泣く涙いまだ干なくに
山上憶良(巻5-798)
万葉の時代にも栴檀があった!そう想うだけで幸せな心地がします。
花を通して、古人と心通じることができるなんて、少し前の自分では有り得ないことでした。
年を重ねることは、決して嘆くことではなくて、知らなかった世界が広がる可能性を秘めているかもしれません。そう、今風に言えば、時空を超える。なんて素敵なことです。
楝(おうち)が、それを証明してくれます。
栴檀の花が好きというだけに留まらず、『荘子』逍遥遊篇に登場している楝は哲学的です。
知らずにいたときはスルーだった文章の意味が、近ごろ深くなりました。
「我に大樹あり。人は之を楝という」
荘子は「無用の用」を説きます。
楝は柔らかくて木材には適さない木だそうです。役に立たないから無用の長物か。そうではないといいます。大きな木陰が憩いの場所を提供するではないかと。
季節をあくせく追っかけている私を嘲笑うが如き古代の哲人です。