こころあそびの記

日常に小さな感動を

淀川の堤防を歩く

f:id:snowrumirumi:20210810151552j:plain


 4年前の台風や地震で甚大な被害を受けて、仮のテントの中にお鎮まりになっていた八雲神社の神様が、今朝、参詣したら本殿にお移りになっていました。
 うれしい朝になりました。

f:id:snowrumirumi:20210810152858j:plain

 神社の裏手から淀川の堤防に上がってみました。
 上流の方は生駒山が右手に、振り向けば右手に六甲山、下流に大阪のビル群が見えます。高い堤防からのパノラマはいつ訪れても、あんたが大将、と励ましてくれる素敵な場所です。
 足元に「万博公園まで8.5km」という標識が埋め込まれていたので、何気なくGoogle検索してみたら、2025年の「大阪関西国際博覧会」までに、この淀川を整備するという記事が見つかりました。
 現在、大阪湾から川を上ってきても、毛馬の閘門あたりで水位の違いのために、その上流には行けないそうです。
 それを、新たに大阪大堰閘門を作って、船が行き来できるようにするというプランです。

 東海道53次は江戸から大津までのこと。家康公は京都を迂回させるために、そこから大阪までは京街道を通らせたといいます。
 大津から分かれて、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場町が栄えたことが記録に残っています。
 この4宿を加えると、東海道57宿になるわけです。
 
 川の流れに逆行する上りは大変な労力が必要だったようです。早朝に大阪を出航して、伏見には暗くなって到着です。
 反対に流れに乗っての下りは、伏見を夜に出て、翌朝に大阪に着きます。

 私はこの下りの船に乗っていた人を知っています。
 枚方宿と守口宿の間に中宿といわれた「佐太」という場所があります。
 淀川の堤防から参道の松並木に導かれて下りてゆくと「佐太天神宮」がありまして、その境内に立派な蕪村の石碑が立っています。

『窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな』 蕪村 作

f:id:snowrumirumi:20210810184422p:plain

 蕪村が京から故郷の毛馬村(大阪・都島)に夜船で下った折りに詠んだ句と言いますが、絵画に通じた蕪村らしい描写で、時雨に煙る夜の賑わいが見えるように思いませんか。
 三十石船が行き交い、「食らわんか~」と物売りの声がこだまする。唐突ですが、京阪電車テレビカーを連結していたのは、この楽しさをいくらかでも再現したかったからでしょうか。
 もしも、京都から大阪夢洲まで船が運行される日が来たら、蕪村の足跡を辿ってみたい。俳人と同じ気持ちに浸ってみたいものです。
 残念ながら、現在の佐太の夜は真っ暗です。
 しかし、このプロジェクトがうまくいけば、沿道の町の活気は取り戻せることでしょう。
 さいわい、守口市内には、秀吉が文禄年間に淀川左岸に作った「文禄堤」が残っています。他にも、大阪が元気だった頃の遺産が残っています。
 淀川が機能していた頃、そんな頃を復活させる「淀川大堰閘門設置事業」を応援します。