NHKラジオ「山カフェ」を聴かれたことはありますか?
小学生の頃の登山遠足ではいつもビリで、先生を困らせていた私ですから、山に登れるほどの体力がないと諦めて、このラジオにも興味がありませんでした。
ところが、今朝は「尾瀬沼」からの中継ということで、「夏が来れば思い出す♪」から始まったので、つい聞き耳を立ててしまいました。
テーマは「池塘(ちとう)」。
湿原の中にできる池とのこと。雪解け水などが流れ込んでできるから、北日本に多くて、しかも、尾瀬のような高原に残っているそうです。残念なことに、平地は開発の波に呑まれて消失してしまったようです。
ただ、想像できる場所があります。それは、田んぼです。田植えが済んだ田んぼには見惚れるくらい美しく青空と雲が映っています。身近にある尾瀬沼です。
この楽園とも天国とも称される尾瀬沼の説明が放送されている最中に、番組宛に届いたメールの紹介がありました。
その中の一通に「春草の夢に出てくる“池塘”がどのようなものなのか、ようやくわかりました」と、先生らしき方からのものがありました。
こういうの、いいですね。知らないことを教えてもらいました。
『 偶成 朱熹
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧桐すでに秋風 』
池塘の堤で春の夢うつつでいたら、いつのまにか梧桐に秋風が吹いているよ。(時間を惜しんで勉強しましょう)
この夢。どことなく荘子(紀元前369~286)の「胡蝶の夢」に似ています。
古代においては「夢」は眠っている間に魂が抜け出すことと考えられていて、ひらひら飛ぶ蝶はその象徴とされました。荘周が寝ている間に胡蝶になって自由に遊んで、目が覚めたらやっぱり自分だったというお話。あの世とこの世を自由に移動しています。
時代が下って朱熹(1130~1200年)の時間移動は、なんだかせわしない感じです。儒学をベースとする朱熹はお勉強第一、老荘の荘子は無為自然という違いがこんなところにも見えます。
荘子の夢で愛しい人に会いに行くのも楽しそうですし、時間移動ができるのであれば成長した孫たちに会いに行くのも捨てがたいところです。
中国の古代の偉人たちは、人間共通の課題や理想を追求しています。データからの発想ではなかったはずです。生きてみて、どうだ。という体験ではないでしょうか。長らく愛され続けている理由は、そこに人間の本質的普遍性があるからだと思われます。