
短毛丸が、また咲きそうです。植え替えの方法が分からず放ったらかしで、家人のだれもが気付かないうちに、こっそりと「今だ!」と好機を逃さず持ち上げた花茎に心動かされた朝でした。

小休止のあと、ワンコのオヤツを買いにキューズモールまで。
ヤマボウシの木が暑さにやられて悲惨な姿を晒している中で、大丈夫かなと近づいたカツラが青々と葉を茂らせて生き残っていたことは、今日一番の喜びでした。木の下に入ってバニラの香りをうんと吸い込んで帰ってきました。

いつか読んだコラムに、私たちの人生は縦軸と横軸によって構成されていると書かれていたように記憶しています。
縦軸は、この世の自分の努力や出会いでありましょう。
そして、横軸は運命といえるようなものではないかと勝手に解釈しています。
しかし、この考えは今に始まったのではなくて、古来から云われていたことだと教えてくれるのが、『漢文力』(加藤徹著)という本です。その中の”老いるということ“という章に李白の詩があります。
漢文が読めないものですから、訳文を写しますと、
「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。しかして、浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾ばくぞ。古人の燭をとりて夜遊ぶは、まことにゆえあるなり」。
これは、『奥の細道』の冒頭です。それに気づけば、『奥の細道』は単なる紀行文ではなくて、彼の人生の集大成であることが分かります。
李白の思いにに共感したからこそ、天地という経糸の上で生きる緯糸の人間を書き出しに使ったように思います。
それほど、「生きる」ということを真摯に考え抜いていた証拠だともいえます。
経糸緯糸の交わる今という点は、天地自然の巡りと自分という存在の交差点です。
経糸がたわんでいるときに、どんなに頑張って緯糸を張ろうとも、美しい模様を織り上げることはできません。今は、うまくいかないとき。そんなアドバイスができるのも、長く生きた者ならではのものかもしれません。

最後に、現代人だって気づいている人があります。名曲『糸』を作られた中島みゆきさんです。彼女の見通す力にいつも感服しています。
その実力は、彼女の努力と天地への祈りによって養われたものが発現したものと思っています。