こころあそびの記

日常に小さな感動を

『方丈記』通り

 

 「チャンチャン待っときや」というひとことを信じて、じっとお座りして待っている健気さに負けて、愛犬と朝散歩に出かけました。

 

 

 なんで、敷石のここにだけ苔が生えるの?

 

 

 育ってますね。大根さん。

 

 

 露地のイチゴ。がんばれ。

 

 

 天気は上々。アリーナでは「サンバーズ」の試合があるようです。活気ある声が響いているのを聞くにつけ、コロナ制限解除をうれしく思いました。

 

 

 でもね、今朝はさびしい想いもしました。

 ここに来れば会えた動物たちが居なくなっていたのです。

 ヤギさんもニワトリさんも。

 開発で所有者が代わってしまったのでしょう。

 がっかりした気持ちに追い討ちをかけたのは、梅の林が宅地になるという予告看板でした。

 あぁ、来春の梅は観られない。

 蜜を楽しみに待っている小鳥さんたち、ごめんね。

 仕方ないこと。自分の家だって、昔は桑畑だったのですから。

 そこで思い出すのは、やっぱり『方丈記』です。

 「昔ありし家は稀なり」。

 

 出町柳から下鴨神社一体に広がる糺の森(ただすのもり)は、先日通りかかった時は改修中で通り抜けできないようでした。

 その森の中に「河合神社」という第一摂社があるのをご存知でしょうか。

 この神社は鴨長明の父が禰宜を勤めた、彼に縁の深い場所ということから、写経代わりに「方丈記の全文写し」という課題が用意されています。

 一度挑戦したことがあって、理系はもちろん文系にも弱い私はその内容を初めて知ることになりました。

 

 生家の権威が失墜して、出家、放浪の道を辿った後に行き着いた心の安寧。そこのところは、若い人には深くは理解できないものではないでしょうか。

 

 

 中野孝次さんが『すらすら読める方丈記』の冒頭で「いつごろからそんなに好きになったのかと言えば、やはり年をとってからである。」と、方丈記愛を語っておられます。

 鴨長明が行き着いた心とは。

 「 事を知り、世を知れれば、願はず、走らず。ただ、静かなるを望みとし、愁へ無きを楽しみとす。 」

 

 この世で経験した壮絶な出来事から、一つの哲学に達して、それを後の世の人々の人口に膾炙するまでの文章に認めたとは、まさに巨人です。

 

 この世の果てにある安寧を求めて、今日も旅をするといたしましょう。