我が家は、南側に待兼山に連なる山というか低い岡があって、豊中と箕面を分ける分水嶺にもなっています。
古い時代から、この高低差を利用して、登り窯が作られていたそうで、土器が発掘されています。
多くの先人が生活した跡がこんな近くにあることを思うとき、彼らと今の自分が繋がっていることに不思議な感覚を覚えます。
先日、野畑図書館の前のお饅頭屋さんにおやつを買いに行ったついでに、図書館に入って「富岡鉄斎」というキーワードを検索機に入力してみました。
鉄斎は偉人伝に出てくるほどの有名人ではなかったので、荘子の授業で鉄斎が超人であったと習うまでは興味のない人でした。
しかし、なぜ、清荒神に鉄斎美術館があるのか、その残した芸術にどれほどの意味があるのかも知らずにいてはもったいないような気が拭えきれないでいたのです。
検索の結果、「富岡鉄斎」の本が数冊探し出され表示されました。中の一冊を選んで、プリントアウトして当該の本棚のあたりで探していたら、ご親切に本の整理をされていた係の方が「それは、書庫にある本ですから、取ってきます」と言って下さいました。
「古い本ですが、いいのですか?」とお尋ねくださったように、その本は昭和35年初版でした。
私が小学校に入学する頃の本だと思うと、それだけでうれしくて、同時に、昭和58年に寄贈されたという「Kさん」に感謝の気持ちが沸きました。
さて、「富岡鉄斎」のことですが、漢学に造詣が深く、画よりも賛を読んでほしいと願ったといいます。が、現代人に彼の望みを叶えてあげられるほどの教養人は、どれほどいるでしょう。
現代人の教養の偏りは考えさせられるところです。
『富岡鉄斎』(小高根太郎著)には、彼に関わったおびただしい数の著名人が羅列されています。歴史に疎い私は、ただただ感心させられるだけです。
その中の誰に迎合するわけでもなく、高潔さを貫いたことが彼の真骨頂だったのでしょう。
幕末から明治へ。
そんなややこしい時代に流されることなく、己を貫けたのは、万巻の書を読むことと万里の道を歩くことを理想に掲げてぶれない強い精神を持っていたからだと思います。
一方で、中国明代の蘇東坡と12月19日という誕生日が同じという事実が、一生涯の支えになったとあります。尊敬する人との同日生を喜ぶ素直さが好ましいことです。
また、 幼い頃から感激性が強い人であったことも、彼を身近に思わせてくれるエピソードです。
何事につけ、見て感じて、大いに感激を覚えたことだけが身につくものである。こんな偉人であっても、そこは同じということもうれしい発見でした。
北海道から九州まで、津々浦々を歩いた鉄斎。
物見遊山ではなく、遺跡や古人の墓を巡って拝礼し、物心ついてから死ぬまで、毎朝、四方の礼を欠かさなかったともいいます。
当時の人の当たり前が風前の灯火になっています。
あんたはできるんか? 否、すでに出来ない時代を生きてしまいました。
せめて、心に留めておきたいと願う一人です。