こころあそびの記

日常に小さな感動を

心を耕す時間

 

 西洋画に表現されるような空の色を見ました。

 雲一つない空のもとでは思わず自分の中まで空っぽになる感覚がおこるのに対して、こんな複雑な天空の造形を見た日には、心の中で何かが生まれる気がします。

 

 

 朝から、家人も出払い一人になったのをいいことに、たまには、こんな日があってもいいかと、休息日を過ごしました。

 

 百田尚樹さんの『モンゴル人の物語』に出てきた『敦煌』(井上靖著)を、読んでみたくなりまして近くの本屋さんで首尾よくゲット。

 横になって本を読むのは久しぶりです。

 運よく静かで平和な時間を邪魔する来訪者もなくて、この上ない贅沢な時間を過ごすことができました。

 

 

 二、三年前なら、 「敦煌」なんて、テレビの特集番組で見かける程度のことでした。

 今もそれほど知識が増えたわけではありませんが、大形先生の教室の片隅で、中国古典を学ぶ機会をもったことで、その雰囲気を感じとることができるようになりました。

 

 

 時々思います。世に、「教養」と呼ばれるものは何だろうかと。

 Googleで検索してみたら「culture」の語源はラテン語の「cultura」であり、その意味は「耕す、耕作」とありました。

 人間の精神を耕すことが教養だそうです。

 教養人が多かった戦前と比べて、戦後教育の貧弱なこと。

 大学入学時に一般教養科目をわずかに受講したはずなのに、身に付いたものはありません。原因は一にも二にも、本人にその気がなかったからでしょう。

 半世紀も経って、人生が終わろうとした頃に、その大切さに気づくなんて、ほんとうにお恥ずかしいことです。

 

 与えられたものだけではなく、教養は、長く生きて、目にしたものや考え悩んだことが足しになると言えるかもしれません。そう、長編中国ドラマも助けになりました。

 『敦煌』は頭の中で嘗ては見えなかった映像が見えたりしましたから。(笑)

 

 主人公の趙行徳に、次に生まれ変わっても、同じ状況で生きるのなら、同じようにしか生きられないと思う、と言わせた井上靖さん。

 それは、彼自身の思いであったように思いました。

 人は、それほどに現世の生き様にかけているのだと思います。もっとこうしたかった。というのは、本音ではなくて、実際は力の限りに生きているのではないでしょうか。

 これ以上、どうすればいいというのか。と。

 

 

 充電の一日はあっという間に過ぎて、みんな帰って来ました。家人に囲まれて過ごす日々は、人生設計には入ってなかったのに不思議な巡り合わせです。それも、人生。