まだ大丈夫かなと散歩にでました。
薄い雲を通して差す陽光で、自分の影を見ました。雨天続きで影ができることさえ忘れていたような気がして、そういえばと思い出したことがありました。
子どもや孫が歩き始めたら、真っ先にする遊びは「影踏み」だった方もおられることでしょう。
私もそうでした。走り回って疲れたら一服して、なぜ影ができるのでしょうか?と毎回同じ質問を繰り返す母でした。
そんなことを懐かしく思いながら歩いていると、遠くで鳴り始めた重低音の雷の音が響いてきました。
そろそろ引き返した方が賢明かなと、踵を返す胸の内は縮み上がっていました。雷さまに追いつかれないうちに、帰宅できて一安心しました。
『蜜蜂と遠雷』。恩田陸さんという作家の力量が示された作品ではないでしょうか。
ここしばらく、新作の小説に興味を失っていましたのに、この文庫本上下二冊はあっという間に読めました。
不思議な題名ですよね。何の関係もなさそうな二つの名詞を連ねて、作家の狙いどころが秘められているはずです。
作品中に出てくる曲名に「春と修羅」を使われているところから、彼女が宮沢賢治を意識されておられるように想像しました。賢治が「春と修羅」に込めた思いとは、あくまでも穏やかな「春」と人間の業の世界の「修羅」の対比でありましょう。
それに倣って、「蜜蜂」という小さないのちが表す平安と、手の届かない神の畏れを「遠雷」で表し、この世にある背反と混沌を表現してあるのではないかと思いつきました。
ピアノという楽器を題材に、極限の演奏が展開されます。
芸術家は、努力だけではなれないことを人は知っています。ピアノを操ることはできても、弾ける人にはなれない辛い現実があります。だからこそ、心に沁みる演奏に価値を見出すのです。
でも、それは、ひょっとしたら、私達も共通の体験をしているかもしれません。
もともと持っている種が何かに触発されたとき、発芽して花が開きます。
しかし、きっかけとなる触媒はすべての人に与えられるものではないし、はなから望まなければ与えられることもありません。あるいは、時に残酷に見える触媒もあります。
自我を捨て、自分という存在を見失って、初めて、自分の求めたものが見えてくると言われます。
それは、芸術家でも修行者でも同じです。
そして、凡人が生きるということにあっても、平凡な日々に組み込まれた修行をしているのです。
遠くから響いてくる天の声に畏れを持ちつつ、蜜蜂のように一生懸命に生きることが、この世の天命だと思いませんか。