今日は『鉄道の日』。
「汽笛一声新橋を」で始まる鉄道唱歌が東海道沿線の町を網羅していたとは知りませんでした。
京都から大阪に向かうところは、こうです。
「おくり迎うるほどもなく
茨木吹田うちすぎて
はや大阪につきにけり
梅田は我をむかへたり」
新橋を初めて出発した日は1872年(明治5年)の今日、10月14日でした。
それから、150年です。
たった?、とも言えますが、その間の鉄道に携わった人々の汗と涙は、後世に語り継ぐべき財産です。
身びいきで恐縮ですが、我が曾祖父も鉄道に携わった一人です。
現在の鉄道線路は殆どが明治時代の遺物といえます。鉄道員の心意気でもって敷いた恩恵を、今、享受していることを忘れてはなりません。列島のどこへでも出かけられるのは彼らのおかげなのです。
線路を敷くには、橋を架け、トンネルを掘らなければなりません。
難工事として今も語り継がれる「丹那トンネル」に曾祖父は携わりました。
その苦労の現場は小説家、吉村昭さんが『闇を裂く道』に書いてくださっています。
新幹線で上京する時、富士山を後にして小田原に出るまで、ずっとトンネルが続きます。
その闇の中で、いつも、あぁこのあたりだな、と会ったことのないひぃおじいさんを想います。
トンネルの上の箱根の山と格闘した人々。大正7年から16年の工期を要したとは、今では考えられないことです。
そんなことから私の鉄道愛は実は半端ありません。
昭和62年に国鉄が分割民営化されることになった時、ネーミングを「国鉄」のままにするか、「JR」にするかで世論が割れたことがありました。
ひぃおじいさんが鉄道省で、その息子は国鉄。ですから、漢字から離れがたくて、「JR」に反対を唱えたことも、今となっては恥ずかしい懐古趣味でした。
さて、先日、東北の只見線が全線復旧したと報じられました。
バスに転換する案を、地元の人は強く反対したといいます。鉄道が走ってこそ、町が町として存続することを訴えられたのです。
たとえ、1日3往復であったとしても、電車が走ることは、村にいのちを吹き込むことです。
こないだ、餘部に行ったとき、サイコロ切符を利用した人々で狭いホームは溢れんばかりでした。
無事に二両のディーゼル車に、積み残しなく全員が乗りこみ、しかもみんな座れたことを確認したとき、娘が「電車ってすごい!」と、驚きの声を上げました。
苦労して先人が敷いてくれた線路を無駄にせず、ローカル線が存続できるように知恵を絞ってもらいたいと切に願います。
鉄道官僚として大叔父と机を並べた、佐藤栄作、元総理もきっと同じ思いでいてくださると信じています。